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櫻井義秀『「カルト」を問い直す 信教の自由というリスク』 [社会学ゼミで読んだ本]

「カルト」を問い直す―信教の自由というリスク

「カルト」を問い直す―信教の自由というリスク

  • 作者: 櫻井 義秀
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/01
  • メディア: 新書


 あらゆる街に「オウム侵入反対」といったビラが貼られている時期がありました。確かに、あのような罪を犯した教団が自分の近くにある、ということは気持ちの良いものではないでしょうし、オウムに「侵入」された各地で反対運動が展開されたことは理解できる一方で、どこにも受け入れられることがないならば、彼らはどこに行けば良いのか、とその当時考えていたことを思い出します。

 さて、この本で筆者は、「カルト」に関する問題を、「カルト」内と「カルト」内と外との関わりといった現実のレベルで整理し(つまり、大澤真幸や宮台真司のように、オウムを現代社会を読み解く鍵としてとらえるのではなく)、その結果、問題の淵源として、タイトルにある信教の自由というリスクが浮かび上がることになります。もちろん、個々の問題への対応ということはあるわけですが、大きくみると、カルトの問題はこの信教の自由のリスクをいかに管理するか、という問題になるわけです。そして、その信教の自由が最大限尊重される傾向にある、大学のキャンパスというフィールドの現状と問題点に光を当てています。

 しっかり聞いていなかったので、記憶が定かではないのですが、この本では何がカルトなのかがしっかり定義されていないという趣旨のことをゼミで耳にしました。まさにその通り、ではあるのですが、この種の問題は何がカルトなのかについてだけでなく、あらゆる場面において、信教の自由というリスクをどこまで受け入れるのかや信者の勧誘行為がどのくらい過度なときに違法なのか、などなどの線引き問題に帰着せざるを得ないのではないか、というように思います。

 この線が信教の自由に最大限近く引かれている場が大学であり、公共の福祉に最大限近くに引かれている/引きたいのがオウムに「侵入」された地区の自治体や大学ということになる。筆者は大学での、価値的な評価を控えて、体制に抗い、少数派に耳を傾ける放任主義を「原則リベラリズム」として、批判的に取りあげています。つまり、高校までのクラスという絆から切り離され、大学という場に放されて、ひとり寂しくいるところにカルトが付け入って、布教する、したがって、大学側は学生に積極的に世間という荒波での「浮き方」(「泳ぎ方」とはいかないまでも)を指導すべきだとするのです。これを大学生はいかに思うのか。

 私自身は、そんなのほっとけよ、ほっといてくれよと思うわけです。私の場合は高校も放任主義の都立高校だったために、大して大学に入ってからとそれ以前の生活に差がないというのもあるのかもしれない。これもまた、程度問題になるわけですが、ある種の注意喚起は必要だとは思いますが(確か東大の場合には合格者に渡される生協の書類だとかの入った袋の中に何かビラみたいなものがあったような)、生徒を一人にしないぞとか、「正しい情報の得方」の講座というような試みが本当に必要なのか。

 おそらく、大学側の腰が重い(と筆者には見えている)のは、筆者の提案するようなリスクへの対処法、つまりは世間という荒波での「浮き方」の指導は大学の役割ではなく、それ以前に身につけていてしかるべきだと考えている教授陣が多いからではないでしょうか。中高一貫で育ってきた人たちが高校というものをいかにとらえているのかはちょっとわからないけれども、公立の道を歩んできた私は以前友人と高校に通うことの意味について議論したことがあった。その中で私は、その意味をまさに放っておかれる中で、いろいろな人と出会い、文化祭などにつきもののもめ事を経験し、平衡感覚を身につけていくことに見いだしたように記憶しています。中学のようにみんな同じ服を着て、みんな同じ時間に登校し、みんな同じ昼ご飯を食べ、先生にものを申せば中身を問わず嫌な顔をされるという暮らしに対して、それぞれが好きな格好をして、退屈な授業には出たり出なかったり、昼ご飯は好き勝手な時間に好きなものを食べる、言いたいことはきちんといえる高校生活。もちろん、変な格好をしていれば、クラスで浮くかもしれない、授業をさぼりすぎれば単位を落とすかもしれない、ものを申して、こいつ頭悪いなあと思われるかもしれない。そのリスクは自由と引き換えに受け入れざるを得ないということを実感した時期でした。勉強面に高校の意味を見いだすならば、高校の内容は大学と中学でそれぞれ引き受ければいいじゃないかというのが確か友人の主張だったように思います。高校なんて「カルト」にいかに対応するかぐらいでしか、役立たない空間なのかもしれない。

 私の出身高校は今年度から中高一貫の都立校になりました。先日、担任のもとを大学合格以来初めて訪ねたところ、世間・新入生の両親から期待される学校像と先生の描く学校像に齟齬があることを嘆いていました(と書いては、嘆いてはいない、と怒られそうですが)。前者は面倒見のよさを期待し、後者はそれまでの高校と同様の自由放任を旨とする学校づくり(確か、生徒を紳士淑女として扱うというのが始業式などでのお決まりのフレーズだった気が)がしたいわけです。面倒見のよい中学、面倒見のよい高校、面倒見のよい大学、どこで、ほんとに世間の荒波にさらされるんでしょうね。もちろん、私も荒波をバシャバシャかぶっているわけではないので、こんなことを言えた立場ではないのですが、若気の至りということで。


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エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 [社会学ゼミで読んだ本]

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

  • 作者: エーリッヒ・フロム
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 1965/12
  • メディア: 単行本


 『自由からの逃走』、何か人気ロックバンドの曲名にでもありそうな魅力的なタイトルである。人間は本来切望され、追求されているはずの自由から逃げようとするという衝撃的な議論をフロムは展開する。その逃避の行き着く先はナチズムや、「われわれのデモクラシー」に見られる機械的画一性であるという。1941年という第二次世界大戦のまっただ中に書かれた本の中で、敵であり、究極的な悪であるナチズムの土壌はその機械的画一性にあると指摘させた彼の切迫感は今をもっても価値あるものとして、現在のわれわれにも迫ってくる。

 アメリカでは2001年の同時多発テロ以降、国民は「強いアメリカ」を志向し、2004年の大統領選挙においても防衛のためなら先制攻撃も辞さない「ブッシュ・ドクトリン」を掲げるブッシュ大統領が再選を果たした。フロムの「自由からの逃走」の図式によれば、冷戦期の社会主義に対するところの資本主義という強固な結束の崩壊は「第一次的な絆」からの開放であり、アメリカ国民はそこからの孤独感に加え、テロによる脅威、不安につきうごかされて、自由からの逃走を図り、自分を無にし、国家に服従するマゾヒズム的傾向と、「民主化」と正当化されるアフガニスタンやイラクへの武力行使というサディズム的傾向を示し、程度の差こそあれ、権威主義的な状態にあるといえよう。

 上記の見方は世界で起きている事象を確かにきれいに説明する。しかし、見失われる部分も大きい。フロムは「第一次的な絆」からの開放による消極的な自由の獲得によって味わうことになる、人々の孤独感を社会主義においての積極的な自由の獲得によって克服することが、自由の発展の歴史からみても、正しく、適切な方策だとしている。本当にそうだろうか。
 
 21世紀に生きる我々の世代にはそのようなユートピアとしての社会主義のリアリティは全くない。その言葉から連想する社会はフロムが戦争中ゆえに控えめに否定したと思われるソ連や中国などしかない。それらはいずれも社会主義を掲げてはいるが、自発性が最大限尊重される積極的自由が実現された国々とは決して呼ぶことはできない。

 自発性という概念自体も危うい。本書で言及されたように完全に自分の感情や思考、意志を持つことは教育によって人間が成長する以上は不可能であろうし、自発性の装いをした強制がそこでは立ち現れざるを得ない。ジョージ・オーウェル『動物農場』には、動物農場の戦いと勝利を記念するための「自主的示威行進」がナポレオンに強制される様子が描かれ、何よりも我々は実際の姿として、指導者の誕生日をありったけの笑顔で自主的に祝うあの国の人々の姿を思い浮かべることができる。そのとき、自由からの逃走による機械的な画一性と積極的な自由とは原理的には異なっていても、実際的には似たものになってしまう可能性は大いにあろう。

 そもそも、自由とは最上の価値を帯びたものなのだろうか。あるいは、束縛があっては自由はないものなのか。「第一次的な絆」と一言で言い表しては抱えきれない絆がある。東浩紀の表現を借りれば、「大きな物語」を「第一次的な絆」と感じ、その喪失を自由への前進であり、孤独への後退だと捉えることも、「小さな物語」もまた「第一次的な絆」であり、その種の物語が消えない以上は永遠に消極的な自由であっても獲得できないと捉えることもできる。結局、『自由からの逃走』は自由とはいかなるものであって、いかに可能なのかという問いに帰着する。『自由からの逃走』のほころびの先にある、また新しい自由の姿を〈自発的〉に創造する必要がある。


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エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』 [社会学ゼミで読んだ本]

オリエンタリズム〈上〉

オリエンタリズム〈上〉

  • 作者: エドワード・W. サイード
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 新書


オリエンタリズム〈下〉

オリエンタリズム〈下〉

  • 作者: エドワード・W. サイード
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 新書


 よく耳や目にはしていた『オリエンタリズム』だが、今回初めてその一部を読んだ。今となっては、その内容に新鮮みはないけれども、その衝撃は大きなものだったのだろう。
 今日の議論の中で興味深かったのは、このオリエンタルの立場がOLの立場に似ているという指摘だった。確かに、「オリエンタリズムとは、結局、著作と著者を引用するシステム」(63)である以上は、そこに言及していくとき、このサイードの『オリエンタリズム』でさえも、ある意味ではオリエンタリズムの再生産に加担してしまっているのではないだろうか。
 興味深かったのは、序説の中(上p66)でこの書で何を読者に示しているかを、一般の読者やいわゆる第三世界の読者に対して提示し、自らの希望を述べている点である。つづく、個人的次元では自らの「東洋人」意識がこの研究への動機となったことが述べられている。彼のこの問題に関する執念は、本来「オリエント」に属する日本人にも共有されてしかるべきであろうが、個人的な体験のレベルからの情熱という点ではなかなかそこまでの執念は日本の研究にはないといえよう。なぜだろうか。
 ひとつには、日本はオリエンタルなまなざしの対象におかれてきた一方で、日本自らはオリエントから脱却して西洋に加わろうと努力し、単に西欧に支配されてきただけではないということがあろう。福沢諭吉の「脱亜入欧」はまさにその典型である。
一方でインドネシアのホテルで行われていたという観光客向けの「ケチャ」の公演にも手がかりがあるように思う。つまり、西洋が作るオリエント像に自らをすりあわせていき、自らのアイデンティティを獲得してきたことも大きいのではないか。例えば、ルース・ベネディクト『菊と刀』で提示された、日本人は集団主義的だとの見方が、70年代には中根千枝『タテ社会の人間関係』や土居健郎『「甘え」の構造』に見られるように日本人自身に受容、継承され、さらには吉野耕作先生の指摘によれば、その見方は予備校やコミュニケーションのマニュアル本によって90年代には大衆化したという。ここでは、自分が何者であるかという根源的な問いへの答えとして、積極的にオリエンタルな見方を日本人の特殊性として引き受けている様子がうかがえる。
一方では西洋の立場に立ち(あるいは西洋から見れば立ったつもりになり、だが)、一方では西洋から与えられたオリエンタルな見方を自らのアイデンティティとして引き受ける――二重のオリエンタリズムが日本からのまなざしにはあるのではないか、というのが私の考えである。先に挙げた、著者の希望には「旧植民地の人々に対しては、この構造を自分自身や他人の上に適用することの危険と誘惑とについて明らかにすること」(上p66)と述べられており、この書のむすびには「わけても、私が読者に理解していただけたことを願っているのは、オリエンタリズムに対する解答がオクシデンタリズムではない、ということである」(下p286)と書かれている。まさに日本はこの誘惑に駆られているわけであり、「アメリカ人は個人主義的だ」、などとの安易なイメージをもって西洋を捉えている限り、オクシデンタリズムからも脱却できない。
ただ、ではどうするか、というと簡単には解決できぬ問題であることも確かである。日本の現状を鑑みた時に、この歩みは誤りであったともいえないように思える。そしてまた、この本に書かれたアラブの立場がまったく変わっていないことも事実である。ここにあるのは、多様な現実である。いかにこれを抱え込むかは、今の私にはわからないというのが率直な所だ。


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広野由美子『批評理論入門』 [社会学ゼミで読んだ本]

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義

  • 作者: 広野 由美子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 新書

 最近、私はなぜか急に小説に凝っている。この本に書かれたさまざまな小説技法、批評理論はその小説でいうとどんな切り口に当たるのかなどと考えながら読んだ。各論には本来もっと奥行きがあるのだろうけれども、著者の祈りはむなしく、「フランケンシュタインの造った怪物のごとく、残骸の寄せ集めのような奇異な様相」を呈してしまっている感さえある。ただ、この本はまさに入門であって、これを手がかりに気になる部分をさらに読み進めよ、ということなのだろう。

 あとがきによれば、この本のそもそものねらいは「小説とは何かという根本的な問題について考えること」だという。そうであるならば、その問いの答えへと接近していく批評の紹介では、それがどのような観点から批評をしているのかだけでなく、それで何をいわんとしているのかにもより多くのページを割いてほしかった。

 と、今回の本は読んだ結果、「小説ってそういう読み方があるんだな」と、教科書を読んだ後のような状態で、なかなか感想が書きづらい。そこで、ゼミの中で、ポストコロニアル批評における、植民地化を進める一方で、文化的には西洋の植民地支配の影響を受けた日本の微妙な立場ということが議題に上っていたので、夏目漱石『三四郎』のなかから、その手がかりになるようなところをまとめてみる。

 熊本から上京する車中で、三四郎は一高の広田先生(そのときは三四郎は相手の正体を知らないが)と浜松駅にいた西洋人について美しいと話し、広田先生は日本は日露戦争に勝って一等国になっても、天然の富士山以外は庭園も建物も自慢できるものもなく、お互いは憐れだという。三四郎はこの人は日本人なのかといぶかしがりながら、これからは日本も発展すると弁護すると、広田先生は日本は亡びるねとまでいう。

 確かに、会話においては三四郎は帝国主義国日本の立場を、広田先生は西洋列強の帝国主義支配下の日本の立場を表しているといえ、日本の微妙な立場がここにもうかがえる。もちろん、広田先生の性格上、この話にどこまで真剣なのかはわからないのだが。

 

 夏休みになったら、読みためている本についても、なんか感想を書こうかなあと思っているので、この本のことを参考にしてみます。


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赤川学『子供が減って何が悪いか!』 [社会学ゼミで読んだ本]

子どもが減って何が悪いか!

子どもが減って何が悪いか!

  • 作者: 赤川 学
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2004/12
  • メディア: 新書


 この本の基本的な柱は2つ。1つは現在言われている少子化対策としての男女共同参画社会はその対策としては有効ではないということ、もう1つはそれとは別個に男女共同参画社会は実現すべきだということ。その両者を貫く主張が「子どもが減って何が悪いか!」である(もちろん少子化にデメリットがあることは著者も認めているのだが〉。「リサーチ・リテラシーのすすめ」でもこの本はあるだけあって、統計をいわゆる新書レベル以上に繊細に用いている。それだけに、普通の読者は途中で読みたくなくなる気がするけれども...もはや常識とされているようなこの風潮に異議を唱えているわけで、読んでみる価値はあると私は思う。ただ、完全には納得できないのも確かなところ。以下は感想です。
 私自身は、この本の冒頭に書かれている、某有名キャスターの「OECDなど先進国では、女性の就業率が高いほど、出生率も高い。日本も考え直さなければなりませんね。」とのコメントに違和感はなかった。おそらく、地理で受験した人ならば、著者の指摘する、少子化の原因は女性の高学歴化・社会進出による晩婚化、未婚化にあるとの説は学んだことがあろうし、私もその一人である。私が、そのような発言の背後に想定していたのは、女性は恵まれない環境にありながらも社会進出を成し遂げてしまった、そのために子供を埋めない状況になっている、だから、このいびつな男女共同参画社会を完全なものにしていこうとの理屈だった。ただ、この本ではその理屈もしっかりと否定されているので、確かにこの種の言説自体が、トンデモ、ということになろう。
 ただ、ツッコミを入れたいところもある。例えば、29ページの「OECD諸国の平均的な関係からみれば、逆に男女の就業機会の均等な国ほど出生率も高い」との八代尚弘の言説に対して、著者はそこでは「相関が高くなるようなサンプルだけが恣意的に選ばれている可能性が高い」と指摘し、作為がないならば、根拠を明示することを求める一方で、「相関係数を算出する際のサンプル数は多いことにこしたことはないわけだから、十六ヵ国より二十九ヵ国のデータのほうがましである」としている。しかし、このサンプルの選び方は恣意的なものとは簡単にいえないのではないか。これらの国々は日常からなじみが深い国であるように思え、直感的にこの国々の選び方に疑問を感じる人は多くないだろう。ここで、31ページに掲げられたOECD加盟30か国のうち、八代が取り上げなかったものを列挙すると、ベルギー、チェコ、フィンランド、ハンガリー、アイスランド、アイルランド、韓国、ルクセンブルク、メキシコ、ニュージーランド、ポーランド、ポルトガル、スロヴァキア、トルコの14か国となる。著者が指摘するように、世界の国々には「お国事情」がある。そもそも、著者が言うように、相関係数を算出する際のサンプル数は多いことにこしたことはないのならば、世界の国々すべてで相関係数を出せばよいわけだ。しかし、それはばかげていると考えるから、先進国クラブといわれるOECD加盟国のみで著者自身も相関係数を求めているのではないか。この考えを延長してはずされたものが、先の14か国だといえる。著者の反論には、そのうちどの国が入ることで相関が変化するのかが記されていないため、よくわからない点もあるが、チェコ、ハンガリー、韓国、メキシコ、ポーランド、スロヴァキアはいずれも、90年代以降のOECD加盟国であり、このうち、4カ国は旧共産圏であるわけだから、お国事情の違いは今をもっても大きなものだろうし、対象に入れることのほうが問題だろう。また、ルクセンブルクやアイスランド、アイルランドは人口や経済の規模が小さく、お国事情の違いが予想される。なじみの深い国を選んでいるという観点から言えば、ベルギーはオランダに、フィンランドは他の北欧諸国に、ニュージーランドはオーストラリアに代替させているといえ、データ上もそう問題ないといえる。
 一番大きなツッコミは、著者の「子供の数は、減ってもかまわない。そのかわり、ライフスタイルの多様性が真の意味ででかく干される『選択の自由」と『負担の分配』に基づいた制度が設計されていれば、それでよいのだ」との結論に対してである。果たして、それでよいのか。第5章「少子化の何が問題なのか」等で論じられているように、少子化は私たちにとってデメリットがあるから問題なのだとの見方がこの本では一貫して捉えられている。その見方は、当然といえば当然なのだが、少子化はヒトという生物としての根源的な部分にかかわる問題でもあり、それが郵政民営化云々の問題とは次元を異なる神々しい問題にしている。ここで問われなくてはならないのは、この本では検討が不十分である人間が営む社会においての子どもという存在の役割とともに、ヒトという生物種の存続のためには必要不可欠な子どもがもつ価値である。両者に共通しているのは、何にも代替不可能な子ども自体が持つ価値である。「子どもが減って何が悪いか!」とひと通り理路整然といわれたところで、「そりゃ悪いだろ」との反応は自然なものにとりあえず、今のところは私には思えるのだが。


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小笠原祐子『OLたちの〈レジスタンス〉』 [社会学ゼミで読んだ本]

OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム

OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム

  • 作者: 小笠原 祐子
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1998/01
  • メディア: 新書


 ドラマではよく目にするOLの世界。今クールでも女性社員を主人公として、日本テレビ「anego」、フジテレビ「曲がり角の彼女」が放送されており、ドラマ部門の視聴率ランキングではともに10位以内にランクインしている。(両者とも抱えた問題はこの本でいうOL的なものなのだが、正確に言うと後者はキャリアウーマン)おそらく、これはそこで描かれる彼女たちの姿に共感する人たちが少なからずいるからだろう。ただそのOL像は誇張が多分にあるのではないか。そこで今回の『OLたちの〈レジスタンス〉』では、実際のOLの姿が、このようなステレオタイプとどのような差異をもってとらえられているのかに関心があったのだが、事実なのか、著者の調査や議論展開に問題があるのかはわからないが、この本ではまるでドラマの中であるかのような、OLの男性への抵抗の実例と、その背景、結末が描かれている。以下、いくつかの論点についての私の意見をまとめてみたい。
 まず第一に、OLたちの行為が〈レジスタンス〉である点に注目したい。ウォーでもレボリューションでもなく、レジスタンスでさえもなく、〈レジスタンス〉。OLたちの種々の行為は、構造的に劣位におかれた女性が、自分の立場を有利にしようとそれを利用して行動すると、女性は無責任だとの見方に代表される図式を再生産し、結局はOL自身が不利な状況に陥ってしまうことは、キャリア志向の女性社員がそのような行動を嫌悪していることからもわかるように、著者の言を借りるまでもなく、誰の目にも明らかである。ということは、もしOLたちが皆、現在の状況に対して不満があり、根本的な解決を望むのならば、このような形での抵抗はしないのではないか。つまり、OLの行為は男女差別解決のための抵抗ではなく、この仕組みを理解した上での、せいぜいその場の「憂さ晴らし」程度の抵抗であり、積極的な「抵抗的協調」=〈レジスタンス〉にすぎないのだと私は考える。
 第二に、男性の家庭からの疎外に脚光を当てたい。これには第二章「ゴシップ」の最後で著者が触れている。一般には、男性が仕事に没頭できるようにするために、女性は仕事をしつつも家庭を省みなければならない、あるいは家庭を持ったら仕事を辞めるべきであるというような風潮があると考えられ、本書の中でも第一章などでそのような状況が解説されている。しかし、これは一面からしか物事をとらえていないのではないだろうか。女性での企業での不当な扱いは、男性の家庭での不当な扱いの裏返しだといえる。ここで問題視されるのは前者の場合がほとんどであることは、家庭よりも企業のほうが価値あるものなのだとのコンセンサスを暗黙のうちに追認し、再生産しているのではないかとの疑念を生じさせる。
 男女共同参画社会との掛け声の中、男女差別の撤廃が求められ、進められてきた。事実上、これは女性の家庭から社会へ、政治・経済の世界への解放運動としての側面が強い。もちろん、男性は仕事、女性は家庭に全力を尽くせ、などとの見方は否定されるべきだろう。しかし、家庭に軸足をおいた生活を送りたい女性もいるのだということも忘れてはならない。様々な〈レジスタンス〉を仕掛けていく、腰掛けとしてのOLの生き方を選びたい女性もいるということだ。そして、これは女性に限ったことではない。男女共同参画社会というのは、男性が女性とともに家庭にもより深く関われる社会をも意味するものではないのか。ここで、結論としていえるのは、女性を男性の地位まで引き上げよということではなく、男性であっても一般職的な仕事や専業主夫を、女性であっても総合職的な仕事を選べる状態、ジェンダーが融解した社会を希求することが、究極的なレジスタンス、レボリューションなのではないか。
 もし、OLが男女差別に対する根本的な解決をめざすのならば、その道筋の一つの手がかりは、構造によって取らされてしまう抵抗の手段によって固定化される男性からの女性観の再生産のメカニズムを止めることにあるだろう。しかし、女性から男性へ、ジェンダーを超越した問題へと視野を広げたとき、解決策は容易に見つかりそうもない。爆発的な人気を誇ったフジテレビ「ショムニ」はOLの掃き溜めといわれる総務部庶務二課を舞台としたものだったが、何らかの意味でOLのイメージを反映したものだったように思う。その時、意外にも、体を張って企業を変革しようとする「ショムニ」のメンバーの行動は単なるOLドラマ以上に事態の解決への示唆に富んでいるのかもしれない、といってみたりして。


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大澤真幸『現実の向こう』・藤原帰一編『テロ後 世界はどう変わったか』 [社会学ゼミで読んだ本]

現実の向こう

現実の向こう

  • 作者: 大澤 真幸
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2005/01
  • メディア: 単行本


 今回は大澤真幸『現実の向こう』。題名のごとく、この本で彼は現実へとせまり、そして現実の向こうにあるもの、あるいは現実の向こうにある今の現実へとまなざしを投げかけている。内容としては、第1章では改憲・護憲で揺れる日本国憲法への彼独自の処方箋を「平和憲法の論理」と題して提案する、第2章では『虚構の時代の果て』の議論を受け継ぐ形で、TBSのドラマ、2つの「砂の器」を補助線に「ポスト虚構の時代」を論じる、第3章ではわれわれの合わせ鏡としてのオウム真理教への「ユダとしてのオウム」に代表される四つの提案を行う、といったところ。この本は講演会をまとめたもので、今までに彼が論じてきたものの焼き直しといった感が強い。
 特に第1章は直接には触れられていないものの、『文明の内なる衝突』での最終章「弱くかつ強い他者たちへ」での贈与、真の〈普遍性〉の実践・具体バージョンといってよいものかもしれない。ただ、そこでなされる提案は筋が通っていても、実際には政治的に絶対不可能なものでしかなく、所詮は机上の空論との批判も否定できない。しかし、一種の思考実験としては非常に興味深い。ゼミでもそうだったけれども、彼の著作は私のゼミの先生曰く、理屈とは言えない理屈をただこねているだけ、あるいは単に胡散臭いと受け入れない人たちと、前者からいえば「大澤信者」ともいえるように熱狂的に彼の論を支持する人たちに分かれるように思う。私自身はもともと彼の著作を多く読んできたわけだが...ということでなぜそうなったのかを振り返ってみたい。
 
 9.11以来、機会あるごとに私は大澤真幸の著作や対談などを読んできた。もちろん、それは彼の議論に対して好意を持ってきたからである。しかし、彼に対しての冷ややかな視線があることも理解している。私としては、同年代で、同じような環境にある大学生はどのように彼の議論を受け止めているかが気になっていたので、今回のゼミは非常に興味深いものであった。今回の感想は、先生がおっしゃっていた、彼のどこに説得されるのかという問いに、あたかも内田先生のごとく自伝的に答えることにしようと思う。
 2001年9月11日、高校3年生だった私は塾から帰ってきた、そのままの体勢で2時間以上テレビの前から動くことができなかった。超高層ビルに突き刺さった飛行機、もう一棟に突っ込んでいく新たな飛行機、人影とともに崩れ去っていくビルディングとその砂煙――。まさに映画のような現実、こんなことが起きるのならば、何が起きても不思議ではない、当たり前のものを突き崩す当惑の感覚、あるいは何か心の中の膿が吹き飛ばされたかのような爽快な感覚。こんな事件を前にして、受験勉強など何なのだろうか、今私は何を考えなくてはならないのかとの思いにとりつかれた。
 しかし、それを伝える「ニュースステーション」の女性キャスターは通常のニュースの文脈で片づけようと懸命であるように思えた。これは、事故なのか、テロなのか、あるいは大統領は今どうしているかなどそのような状況が、興奮した様子ではあったけれども、淡々と伝えられていった。別にこれは彼女に限られたことではなく、それはむしろ報道のあるべき姿であったのだろうし、各局の緊急特番をつとめるキャスターも同様であった。確かに、こんな真夜中に各局の看板キャスターが必死になって、その状況を説明していること、米大統領の演説が世界中に同時に配信されていること、ましてや、つい数時間前まではそこにあった巨大な構築物がもうそこにはないこと、それら自体は事態の異常性を物語っているのかもしれないが、何か私にとってそのあり方は違和感があるものだった。
 翌日、学校に行って誰かと議論すれば、この違和感は解消するのかと思った。もちろん、この事件を知らない人などはおらず、私と同じように一晩中テレビにかじりついていた友人もいたのだが、意外にもこの事件には関心がない人が多いようで、そんなことしていると浪人するよ、との忠告まで受けた。

テロ後―世界はどう変わったか

テロ後―世界はどう変わったか

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2002/02
  • メディア: 新書


 結局忠告を守らなかった私は浪人してしまい、暇になった3月に藤原帰一編『テロ後 世界はどう変わったか』を読んだ。その中では以前から興味のあった政治学の立場からは藤原帰一が「アメリカの平和」のなかで、‘パックス・アメリカーナ’、‘帝国としての、警察官としてのアメリカ’と、ある意味では使い古された見方によって、このテロを論じていた。これはこれで、私を引きつける所があったが、より心ひかれたのが大澤真幸の「文明の外的かつ内的な衝突」であった。彼はこの中でアメリカ人のテロリストへの憧憬に触れ、テロは「われわれ」自身の内的な問題だと論じていた。米ブッシュ大統領が対テロ戦争においては敵か味方かのどちらかであり、中立は許されないと発言したことに代表される二分法を、悪者と犠牲者を片方に固定することへの非難に加え、二分法には還元できない立場が存在するのだという意味で否定する藤原の見方は特別目新しい物ではなく、友人たちとの議論の中でもたびたび問題としてきた点だった。それに対して、テロもアメリカも「われわれ」の問題とする大澤の主張は、テロへの憧憬という形で、そもそも私がテロに対して抱いた当惑の、そして爽快な感覚を汲んだものである反面、日頃私が物事を考える座標軸を突き抜けたレベルから物事の本質をとらえたものだと感じられた。それ以後、社会をとらえる一つの手がかりとして、『虚構時代の果て』や『文明の内なる衝突』、『自由を考える』といった著作を読み進めた。これらで大澤は私自身が感じていた時代の「息苦しさ」の核心にスリリングに迫っていき、私は特に後ろ二つの著作の実際的な問題意識に基づく結論として何らかの処方箋を出そうとする「思想家」的な彼の立場にも共感を覚え、講演会などにも足を運んだのだった。
 ということで、今回の『現実の向こう』に至ったわけである。私はこの第1章がきっかけとなって大澤への熱が若干冷めてしまった。それは私が本拠としていた座標軸に彼の議論を落とした場合、相当に空虚なものにならざるを得ないことを痛感したからだった。
 私に大澤を「思想家」的な神々しさを持ってとらえさせたひとつの要因は、先生のおっしゃったようにパラドキシカルな議論展開にあると思う。メビウスの輪のような現実観と、それを支える彼の議論は物事に対して斜に構える癖のある私にはこの上ないものだったといえる。そして、今もそれは捨て去ることはできていないし、プラクティカルな問題を思想的な観点から読み解く彼の姿勢はやはり頼もしく思える。私が大澤の著作のほかに、もうひとつ、駒場時代に夢中になったのはプラトンの哲学だった。片や、弁証法的と称される大澤真幸、片や、弁証法=ディアレクティケーの起源といえるプラトン。大澤風に、この奇妙な一致、いや当然の一致を指摘して、長々とした私の懊悩の時代の回顧を終わりとしたい。


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内田隆三『社会学を学ぶ』 [社会学ゼミで読んだ本]

社会学を学ぶ

社会学を学ぶ

  • 作者: 内田 隆三
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/04
  • メディア: 新書


 さて、記念すべき一作目は内田隆三『社会学を学ぶ』。この本は、内田先生自身がいかに社会学と出会い、専攻し、研究者になっていったかという自伝的な軸から、ウェーバー、デュルケーム、パーソンズといった社会学の超有名学者や、柳田国男など内田先生の著書にしばしば登場する人物などが幅広く紹介されている。いわゆる社会学の概説書でもなければ、入門書でもない。これを読むには若干の社会学の知識が必要だろうし、誰が読むの?と問うならば、答えようのない本。ただ、良い所もあるとは思うのですが、ということで、本編へ。

 読後の感想を一言で言うならば、二つの面で「興味深かった」ということになる。
 第一には、紹介された多くの人物とその論を知る手がかりとなったという点で興味深かった。具体的にいえば、名前は聞いたことがあったものや、若干はその主張を知っていたルーマンやベンヤミンなどについては、多少知識が深められたと思う。
 第二には、この本の書かれ方が興味深かった。ゼミでも意見が交わされていたように、前半部、序章「社会学を学ぶ人のために」から第三章「マルクス」までは、著者自身の経験を軸として、ウェーバーやデュルケーム、パーソンズといった社会学における‘超’有名人が紹介される、まさに社会学入門向きといった内容になっている。一方、第四章「構造主義」以降は突然、著者の姿は消え、著者の社会学を支える学者のただの概説となり、何か一貫性のない書かれ方をしているとの印象が残る。なぜこのような断絶があるのか。
一つには、第四章以降も著者自身にしてみれば自伝的に書いているのではないかと考えられる。第三章までは、つまり大学院時代までは‘単線的’な道のりであったのに対し、それ以降は行きつ、戻りつする中で、考えを深めていく状況にあることが示されているのではないか。
しかし、表紙に書かれた「社会学の本質に迫る、渾身の入門書」とのキャッチ・コピーを真に受けるならば、この一貫性のなさが社会学の本質とのメッセージなのではないだろうか。実はこの構成自体が、統一理論なき現在の社会学の状態のメタファーである―。が、これはただの深読みであろう。一年生の時に受けた内田先生の「社会1」の授業はこれとまったく同じで、何か釈然としなかった覚えがある。いずれにせよ、前半部と後半部のちょうつがいがなめらかなものであれば、より得るものが多かったかと思う。
 全体的に見て、私としてはこの本は社会学の入門書後の入門書としてはかなり参考になるものだと思う。私は社会学に行くか、哲学に行くか、倫理学に行くか、あるいは入学以前には政治学を学ぶかについて悩み、いわゆる入門書を読んだ経験がある。社会学の入門書は概して何人かの筆者による得意分野についての簡単な論文が載せられたもので、読み手としては結局何が「社会学」なのかよくわからず、筆者たちは何か暗黙のうちに前提があるのかもしれないけれども、社会学とは何でもありなのだなという漠然とした印象が残るだけであった。それに対して、『社会学を学ぶ』は著者がいかにして社会学をとらえ、その道を歩んできたかということがわかるため、バイアスがかかったものではあるかもしれないが、読後に明確に得るものがあるように思う。
 また、多くの人物がこの本の中では紹介されており、彼らを理解するには当然これだけでは不十分であるわけだが、誰が、どのようなことを考えたのかを知る‘きっかけ’にはなる。もし、その人物が気になるならば、自分でその著作なり、より詳しい概説書なりを読めということだろう。個人的には、エピローグにある「この冊子を介してそうした試み(先人たちの現実に縛られない思考の試みのこと)に直に触れ、新たな想像力が形成される機会があることを期待」するとの内田先生のもくろみは成功している部分も大きいのではないかと思う。


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