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櫻井義秀『「カルト」を問い直す 信教の自由というリスク』 [社会学ゼミで読んだ本]

「カルト」を問い直す―信教の自由というリスク

「カルト」を問い直す―信教の自由というリスク

  • 作者: 櫻井 義秀
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/01
  • メディア: 新書


 あらゆる街に「オウム侵入反対」といったビラが貼られている時期がありました。確かに、あのような罪を犯した教団が自分の近くにある、ということは気持ちの良いものではないでしょうし、オウムに「侵入」された各地で反対運動が展開されたことは理解できる一方で、どこにも受け入れられることがないならば、彼らはどこに行けば良いのか、とその当時考えていたことを思い出します。

 さて、この本で筆者は、「カルト」に関する問題を、「カルト」内と「カルト」内と外との関わりといった現実のレベルで整理し(つまり、大澤真幸や宮台真司のように、オウムを現代社会を読み解く鍵としてとらえるのではなく)、その結果、問題の淵源として、タイトルにある信教の自由というリスクが浮かび上がることになります。もちろん、個々の問題への対応ということはあるわけですが、大きくみると、カルトの問題はこの信教の自由のリスクをいかに管理するか、という問題になるわけです。そして、その信教の自由が最大限尊重される傾向にある、大学のキャンパスというフィールドの現状と問題点に光を当てています。

 しっかり聞いていなかったので、記憶が定かではないのですが、この本では何がカルトなのかがしっかり定義されていないという趣旨のことをゼミで耳にしました。まさにその通り、ではあるのですが、この種の問題は何がカルトなのかについてだけでなく、あらゆる場面において、信教の自由というリスクをどこまで受け入れるのかや信者の勧誘行為がどのくらい過度なときに違法なのか、などなどの線引き問題に帰着せざるを得ないのではないか、というように思います。

 この線が信教の自由に最大限近く引かれている場が大学であり、公共の福祉に最大限近くに引かれている/引きたいのがオウムに「侵入」された地区の自治体や大学ということになる。筆者は大学での、価値的な評価を控えて、体制に抗い、少数派に耳を傾ける放任主義を「原則リベラリズム」として、批判的に取りあげています。つまり、高校までのクラスという絆から切り離され、大学という場に放されて、ひとり寂しくいるところにカルトが付け入って、布教する、したがって、大学側は学生に積極的に世間という荒波での「浮き方」(「泳ぎ方」とはいかないまでも)を指導すべきだとするのです。これを大学生はいかに思うのか。

 私自身は、そんなのほっとけよ、ほっといてくれよと思うわけです。私の場合は高校も放任主義の都立高校だったために、大して大学に入ってからとそれ以前の生活に差がないというのもあるのかもしれない。これもまた、程度問題になるわけですが、ある種の注意喚起は必要だとは思いますが(確か東大の場合には合格者に渡される生協の書類だとかの入った袋の中に何かビラみたいなものがあったような)、生徒を一人にしないぞとか、「正しい情報の得方」の講座というような試みが本当に必要なのか。

 おそらく、大学側の腰が重い(と筆者には見えている)のは、筆者の提案するようなリスクへの対処法、つまりは世間という荒波での「浮き方」の指導は大学の役割ではなく、それ以前に身につけていてしかるべきだと考えている教授陣が多いからではないでしょうか。中高一貫で育ってきた人たちが高校というものをいかにとらえているのかはちょっとわからないけれども、公立の道を歩んできた私は以前友人と高校に通うことの意味について議論したことがあった。その中で私は、その意味をまさに放っておかれる中で、いろいろな人と出会い、文化祭などにつきもののもめ事を経験し、平衡感覚を身につけていくことに見いだしたように記憶しています。中学のようにみんな同じ服を着て、みんな同じ時間に登校し、みんな同じ昼ご飯を食べ、先生にものを申せば中身を問わず嫌な顔をされるという暮らしに対して、それぞれが好きな格好をして、退屈な授業には出たり出なかったり、昼ご飯は好き勝手な時間に好きなものを食べる、言いたいことはきちんといえる高校生活。もちろん、変な格好をしていれば、クラスで浮くかもしれない、授業をさぼりすぎれば単位を落とすかもしれない、ものを申して、こいつ頭悪いなあと思われるかもしれない。そのリスクは自由と引き換えに受け入れざるを得ないということを実感した時期でした。勉強面に高校の意味を見いだすならば、高校の内容は大学と中学でそれぞれ引き受ければいいじゃないかというのが確か友人の主張だったように思います。高校なんて「カルト」にいかに対応するかぐらいでしか、役立たない空間なのかもしれない。

 私の出身高校は今年度から中高一貫の都立校になりました。先日、担任のもとを大学合格以来初めて訪ねたところ、世間・新入生の両親から期待される学校像と先生の描く学校像に齟齬があることを嘆いていました(と書いては、嘆いてはいない、と怒られそうですが)。前者は面倒見のよさを期待し、後者はそれまでの高校と同様の自由放任を旨とする学校づくり(確か、生徒を紳士淑女として扱うというのが始業式などでのお決まりのフレーズだった気が)がしたいわけです。面倒見のよい中学、面倒見のよい高校、面倒見のよい大学、どこで、ほんとに世間の荒波にさらされるんでしょうね。もちろん、私も荒波をバシャバシャかぶっているわけではないので、こんなことを言えた立場ではないのですが、若気の至りということで。


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