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柄谷行人『世界共和国へ』と藤原正彦『国家の品格』 [日常読んだ本]

 どう考えても、同列にしてはいけない両書。ご無礼をお許しください。

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて

  • 作者: 柄谷 行人
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2006/04
  • メディア: 新書


 基本的な流れとしては、マルクスを補助線として、商品交換をその原理とする資本、再分配をその原理とする国家、互酬をその原理とするネーションがいかなるものであり、いかに成立して、結びついてきたかを論じ、その資本=ネーション=国家を超えるアソシエーショニズムの実現、カントのいう「世界共和国」への道のりを示す、といったところ。

 まず、疑問点をひとつ。単純にものを知らない私からすると、「商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動」(p179)であるアソシエーショニズムとカントの「世界共和国」がどういう関係にあるのかがよくわからない。そのつながりについては、「各国における「下から」の運動は、諸国家を「上から」封じこめることによってのみ、分断をまぬかれます。「下から」と「上から」の運動の連携によって、新たな交換様式に基づくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される。」(p225)ということだけれども、諸国家の上に立ち、国家を「上から」封ずるものについては、一つの世界共和国という積極的理念の消極的な代替物である連合という道筋がつけられている一方で、「下から」についてはその見通しへの言及がほぼない。もちろん、マルクスが見逃した国家の自立性をいかに処理するかがこの本の核心であり、「下から」はマルクスを読め、ということなのかもしれない。しかし、冒頭で述べた理念と想像力なきポストモダニズムへのある種の対抗を目指して、この本は書かれたわけだから、もうちょっと丁寧に書いていただけたらなと思う。ただ、全般的には、大学生たる私にも大方は理解でき、閉塞する社会状況へのオルタナティブとして非常に興味深い議論だった。

 内容とは別に、興味深いのはこの本の語り口だと思う。本文では「です・ます」と「た・である」が混ぜられ、独特の雰囲気を醸し出している。よく講演会をもとにした原稿ではある文体だけれども、それとは全く違う、息苦しいといっても良いほどの重さがある。あとがきを読むと、「いつも、私は自分の考えの核心を、普通の読者が読んで理解できるようなものにしたいと望んでいた。というのも、私の考えていることは、アカデミックであるよりも、緊急かつ切実な問題にかかわっているからだ」というフレーズが印象的だ。「緊急かつ切実な問題」があると考え、この本を手にし、アソシエーショニズムという理念に対して、自らを方向づける「普通の読者」がどれだけいるのだろうか。この著者の切迫感が上滑りである時代、それが今なのかもしれない。まさに、理念と想像力なき時代である。

 この本は岩波新書の新赤版の1001点目であり、最後のページには「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」と題された文章が付されている。「その先にいかなる時代を展望するのか、私たちはその輪郭すら描きえていない」、「世界は混沌として深い不安の只中にある」という現状認識をもって、「いま求められていること——それは、個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか」とする。そして、「その営みの糧となるものが、教養に外ならない」とし、その「教養への道案内こそ、岩波新書が創刊以来追求してきたこと」であるという。これは柄谷がこの本で訴えたこととの相似形であり、『世界共和国へ』を1001点目に据えたこともうなずける。私自身は、この考え方に賛同するし、岩波には理想を、理念を追いかけてほしいと思う。

国家の品格

国家の品格

  • 作者: 藤原 正彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 新書


 最近ヒットした新書と言えば、『下流社会』や『国家の品格』が思い当たる。前者は、学部卒のマーケティングが専門の民間人が、後者は数学者という国家に関しては全くの素人が書いたものである。もちろん、素人故に、新たな発想ができるということはあるだろう。ただ、その種のものは「一人ひとりが粘り強く思考する」ための糧にはなりにくいのではないか。本当は『国家の品格』についても、読んで自分の考えをまとめようと考えていたのだが、あまりにいい加減な現実の把握、議論の進め方についていけず(彼流に言えば、情緒が論理に優先するのだから当たり前なのかもしれないが)、国のような概念は多くの思考の地層があるわけで、そこを考えない独りよがりな(といっても、一般には支持を得ているようだから、正確にはそうではない)展開に違和感を覚え、途中で読むのをやめてしまった。これは本来エッセイとして読むべきもので、そう真剣に読む必要はないのかもしれないけれども、子供の私には読むことができなかった。大人になったいつの日にか読みたい「新書」である。

 ところで、柄谷がいう「普通の読者」とは誰なのだろうか。柄谷行人ファンでもない、哲学好きのおじいさんでもない、『世界』の読者でもない、あるいは赤旗の読者でもない、もちろん、ゼミで指定文献にされた学生でもないわけだ。『バカの壁』や『下流社会』、『国家の品格』を読んでいる「普通の人」であることは明らかだろう。カントやヘーゲルといった思想とは縁がない人がそれと出会える空間こそが新書である。ただ、「普通の人」がネーションという「想像の共同体」(『国家の品格』が志向する!)から、「世界共和国」へと足を延ばすには“何か”が必要である。“何か”とは何だろうか―


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