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ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』 [日常読んだ本]

伽藍が白かったとき (岩波文庫 (33-570-1))

伽藍が白かったとき (岩波文庫 (33-570-1))

  • 作者: 生田 勉, 樋口 清, ル・コルビュジエ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 文庫


 いわずと知れた建築家,ル・コルビュジエ.といいながら,私のなかでは国立西洋美術館の設計をした人というぐらいの知識しかありませんでしたが,会社で知り合った友人が卒論でル・コルビュジエを扱ったとのことだったので,話題づくりもあって読んでみたのが,ル・コルビュジエがアメリカ訪問にあたっての雑感をまとめたこの本.大学で郊外研究をした私としては,その郊外-都市観が非常に興味深かったのみならず,建築とは思想なのだなと再認識させられました.

 ル・コルビュジエは,機械文明以前のコンセプトに基づいた現在の都市のありようを否定し,機会を活用した新しい生活様式,その実現のための建築への転換を主張します.現代の都市では,馬車の時代につくられた道々で自動車が滞り,人々が田園都市といわれる郊外から職場へと地下鉄や鉄道で大移動することで時間が浪費されているばかりでなく,拡散した人々の暮らしを支えるインフラ整備への莫大な公共投資を支える税金を捻出するため,人々は浪費的に働かざるを得ない.そこで,真の意味での田園に取り囲まれた都心部に摩天楼の住宅を建て,郊外に拡散した人口をコンパクトに集中させることで,浪費のための労働から人々を解き放つとするのです.

 高密度の摩天楼の住宅を建てることで周囲に田園地帯を創出させるという考え方は,「輝く都市」として,自身によって既に示されていた所ではあったものの,彼はアメリカ滞在中にエレベータやエアコンで地上と変わらない生活を実現した摩天楼を,身をもって味わうことになったわけです.一方で,彼は都市の雑踏から逃れるといいながら結局は都市の拡大に外ならない田園都市を建設し,莫大な時間とお金を浪費する人々の姿をそこに見たのでした.

 「伽藍は白かったのだ」.つまり,今となっては黒ずんで見える中世のカテドラルは,それまでのギリシア・ローマの伝統やビザンチンの固定化した型にきっぱり背を向け,その時代の人々にふさわしい様式として新しく打ち立てられたものであったことを象徴的にル・コルビュジエは語ります.機械文明に生きる私たちがそれにふさわしい生活様式に転換するにあたっての伽藍は,まさに同じく空にそびえる摩天楼にあたるわけです.

 例えば,日本で団地といわれるような標準化された高密度の住宅が多くの困難を抱え込んでいる/いたことを知っている私たちとしては,それは単純に肯定されるべきものではないにせよ,郊外育ちの子供はキレやすいというような短絡的な「郊外の病理」での郊外批判とは異なる迫力を持っていることは確かです.なるほど,私が朝7時半から20時過ぎまで働いているうちの相当分は浪費のためか…郊外住宅地擁護派の私としては非常に面白い所です.

 ちょっと,本筋から離れて面白かったのはアメリカへの両義的なまなざしです.アメリカには現代の記念碑となるべき摩天楼がそびえているんだけれども,そのふもとには旧時代からの悪弊が渦巻いていて,ル・コルビュジエにとっても全面的に否定すべき場所でもないし,全面的に肯定すべき場所でもない.「すごくアメリカっていいなあ」という思いと「嫌いだな」という思いが入り交じったこの感覚は,現在もなお多くの人々に持たれているようにも思う.

 もっと,精緻に考えたいし,考えたいこともいろいろあるのに時間がない!ということで終了.


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盛山和夫『年金問題の正しい考え方」 [日常読んだ本]

年金問題の正しい考え方―福祉国家は持続可能か (中公新書 1901)

年金問題の正しい考え方―福祉国家は持続可能か (中公新書 1901)

  • 作者: 盛山 和夫
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2007/06
  • メディア: 新書


 この本では,基本的には,2004年の法改正によって導入された「マクロ経済スライド調整率」を徹底的に活用することで,当時政府与党が胸を張った「100年安心」とまではいかなくとも,「30年安心」の制度となっており,経済情勢や人口動向を見ながら2030年代になって議論すればよいのだ,という考え方が提示される.

 しかし,これが正しい考え方,ということを筆者は述べたいのではない,たぶん.年金問題の考え方の考え方こそが,筆者が光をあてたかった部分なのではないだろうか.プロローグで筆者は,未納問題や一部が優遇される議員年金などの問題への過度な批判,年金の財源を消費税化することで全てがバラ色とする見方などのマスコミや政治家の年金問題の考え方に疑問を投げかけ,問題ごとの考え方が,数式を用いながらきわめて理路整然と示されていく.

 したがって,広く世間で年金問題だと考えられていることがらは年金問題ではない,ということになり,当然,未納の人叩きや優遇されている議員叩きといった一般の人達が好みそうな話題は出てこない.その意味では,非常につまらない本,ということになる.今ホットな話題でいえば,かなりの人数の年金保険料納付記録が失われていたことに関しては実際に支払いに大きな支障をきたす問題であって,批判,検討がなされるべきであろうが,40兆円規模の年金財政からみれば微々たる金額である横領問題を年金問題の中核に据えることは大きな間違いであるわけだ(もちろん,中核に据えるべきではないだけであって,許されないことであることはいうまでもないが).この種の論点のすり替えを見抜け!という意味で,筆者は「正しい考え方」という語を用いたのだと思われる.

 ということで,この本は年金問題の本質に関心がある人におすすめであるわけだけれども,それ以上に大学1年生におすすめしたい本でもある.問いを提示して,それについての論点をひとつひとつ検討して,結論に至るその筋書きは,大学生が初めてレポートや論文を書く際の見本となるし,その言葉遣いも新書ということもあって平易ながら,アカデミックな香りがただよっている.

 個人的な感想としては,格差問題の火付け役の一人である橘木俊詔の年金改革案への批判が興味深かった.階層こそ盛山先生本来の専門分野であり,ぜひとも格差問題についての新書で大いに橘木や山田昌弘の論について検討を加えていただけたらと思う.


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パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』 [日常読んだ本]

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

  • 作者: パオロ・マッツァリーノ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 文庫


 この本が単行本で出たとき,買おうかと書店で悩んだ記憶がある.当時は,もうちょっと固めな本がブームだったので結局買わなかったのですが,先日本屋に行ったところ,文庫になってるじゃありませんか!精神的にもいっぱいいっぱいななかでお固い本なんて読んでられるか!という今日この頃なので,即購入.で,読んでみました.

 感想としては,『反社会学講座』なんだけど,筆者自身も書いてるように,社会学っていう学問がどんなもものの考え方をするのかを端的に教えてくれる,社会学の面白い入門書だなあといったところ.「近頃の若者はキレやすくて,フリーター」とか,「少子化が国を滅ぼす」とかそういう社会学的な議論(というより,マスコミとマスコミに媚を売る社会学者の議論)を統計を用いて茶化すその語り口は近著『つっこみ力』と同様に軽快そのものです.

 ただ,社会学を専攻した私は非常に楽しく読めたんだけど,気になるのは,社会学という学問がそもそもどれだけの人になじみがあるのかという点.この本にしても,『つっこみ力』もそうなんだけど,結構筆者は社会学っていう学問が一般に知られていて,頼りにされているっていうことを前提にしているように思えます.(そして,「だけど,それって…」という形で〈社会学的〉に議論を展開していくことになる.)確かに,例えば筆者が取りあげるパラサイト・シングルや,今話題の格差の背後にいる学者の一人は山田昌弘という社会学者だし,一昔前のブルセラ論争といえば宮台真司という社会学者ですが,果たしてその問題に火をつけたのが誰かを知っている人は少ないだろうし,その個人名を知っていても彼らは報道ステーションとかで最近見る人とか,ラジオに出てなんだかいろいろ言ってる人とか,そんな印象しかないんじゃないかと思う.社会人になって,大学では社会学やってましたとかいっても,それって何ですか?ということになることがほとんどですし.(そういえば,アメリカでは違うみたいですね.全米で相当人気のあるらしいテレビドラマ,アメリカABC製作の「デスパレートな妻たち」に登場するベビーシッターは社会学部卒,と劇中で設定されていました.社会学ってこんな学問,というイメージはほとんど無いに等しい日本のドラマでは,登場人物の設定を社会学を専攻していたなんてすることは考えられないでしょう.)

 で,結局何がいいたいかといえば,『反社会学講座』というタイトルを付けたことで,ほんとはもっといろんな人が読んで「なるほどー」と思えた本なのに,社会学になじみがある一部の人にしか手を伸ばしてもらえないんじゃないかなあということ.非常に余計なお世話なんだけど,この本の〈社会学的〉なものの見方とは,社会学に限定されるものじゃなくて,広く一般に通じるものの見方なので,むしろ,社会学なんてどうでもいいという人が読んだらもっと面白く感じると思いますね.季節柄,筆者が茶化す読書感想文の課題として,この本をお読みになることを中学生の皆さんにお薦めします.そして,9月には一回り大きくなって,頭の悪い先生の説教に反論してあげて下さい.立派な社会学者の卵の誕生です.


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パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』 [日常読んだ本]

つっこみ力 ちくま新書 645

つっこみ力 ちくま新書 645

  • 作者: パオロ・マッツァリーノ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/02/06
  • メディア: 新書


 銀行員となってはや1か月.皆の“スキル・アップ”という私には理解し難い自己研鑽への情熱に距離を置きつつ,うまいことやっていく関係を模索している今日この頃ですが,一種の清涼剤として読書は必須なものになっております.

 さて,そんなことで手にした本がこの『つっこみ力』.イタリアン大学日本文化研究学科卒という,あからさまに怪しい著者は一体誰なのかというツッコミはおいておくにせよ(どこかの社会学者なんだろね),おっしゃることは至極真っ当.簡単にまとめれば,論理と批判を核にするメディアリテラシーは既に存在するものを正しさのもとでぶちこわすものでしかなくて,何も生まないし,実社会で役には立たない.一方,同じく正しさから出発する,笑いと愛と勇気を持ったつっこみ力は相手を盛り上げつつ社会におもしろさという付加価値を生みだしていけるというような議論がなされて,後半は自殺率と失業率の関係にツッコミを入れる実践編となっております.

 つっこみ力は重要,私は社会人1か月でほんとにそう痛感しましたね.もともと論理の世界で生きてきたから,議論がおかしな方向に行ったりとか,講師が頭悪いこと行ったりすると,普通に批判したくなっちゃうところだけど,それを今までの同質的な(基本的な立ち位置を共有した)環境ではない同期の方々に言っちゃうと非常にまずいことになる.だからといって,黙っているのもつらい!という私には“つっこみ力でおもしろく”という提案は結構胸に突き刺さりました.でも,つっこみ力さえも実社会では諸刃の剣なんだろうなと言う気もしたのも事実.企業社会の中で生きていくのに一番求められているのは,あくまで自分の前に提示された選択肢のなかでどれだけ熱く,素直にそのなかで頑張るか,結果を出せるかということなんだろうなというのが,この1か月で学んだことでした.選択肢に,その行いにツッコミを入れちゃうとそもそも仕事は成り立たなくなっちゃうわけで.つっこんではいけない,ある種の絶対不可侵領域(身近なところでいえば,“スキル・アップ”してどうすんの?とか.それでお客さまに最適な提案を行えるようにして満足したいとか,自分の市場価値を高めて,巨額の収入を得ることとか社会的名声を得ることをめざすっていうなら話はわからなくもないんだけど,周りを見渡すと,単純に“スキル・アップ”自体が目的化している人も多いんだよね.たぶん企業側としては,商品販売にあたって必要な資格を取ってもらうことのみを目的とするならば,余計な志はもってもらう必要もないし,おいそれと転職されても困るから,素直に“スキル・アップ”してもらった方が管理上好都合なんだろうし.ましてや,君は何のために働いているの?なんて,現代日本では絶対にしちゃいけないツッコミですな.いずれにしても,おもしろく処理できないし.)にツッコミをいれていいのは結局学者先生とか,高邁な政治家とかしかいないという実感があります.絶対不可侵領域ってのは社会のなかで常識のなかの常識とされているからこそ,絶対不可侵なわけです.そこにいくら笑いと愛と勇気を持ってつっこんでもおもしろさは生まれないで,当然を否定された人にすれば不快にしかうつらないようにも思える.だけど,そこにこそ,究極におかしな/おもしろいことは潜んでいて,ある人からはつっこみどころが満載だったりする.最終的には論理の力しかないような気もするけど,それじゃ人は動かない.どうしますか,学者先生の皆さん?

 そういえば,この『つっこみ力』っていうタイトル自体がたぶん著者の現代に対するツッコミになっていることは指摘しておいた方がいいかも.私は何でも“力(りょく)”をつければいいという安易な言葉遣いに,ら抜き言葉よりよっぽど違和感があるんだよね. “力”つけとけば,さっきの“スキル崇拝”もそうだけど,“スキル”と呼んでおけばそれっぽくなるから,ちゃんとした検討をしなくても立派な言葉,状態にみえる.言い得て妙といわれればそうなのかもしれないけど,一種の思考停止な気もする.で,この本のどこかで齋藤孝をちゃかしてるとこがあったんだけど,彼こそ“〜力”の総本山なわけで.シニカルに,“つっこみ力”って概念を提起してんのかな?とも思った私でした.


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岩波文庫編集部編『岩波文庫の80年』 [日常読んだ本]

岩波文庫の80年

岩波文庫の80年

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/02
  • メディア: 文庫


 少なくとも「読む」という本ではない.1927年の創刊から2006年まで刊行順に全タイトルが網羅されている.目録とは違って,各本の内容紹介はなされていないし,単純なリストが掲載されているのみである.ただ,1981年に書かれた「岩波文庫略史」と1938年に書かれた岩波茂雄「岩波文庫論」は当時の文庫出版にかける思いがありありと伝わってくるものであり,興味深い.確かに,超有名人の著作が何百円かで読める岩波文庫がなかったならば,全集を買いはしなくても,図書館で借りるとかしなくてはならないわけで,今となっては当たり前のこの状況にちょっと,いや本当に感謝.

 岩波文庫といえば,教養主義.

 入学して,相当にショックだったのは,私からみて皆の(あるいは,皆に想定される平均の)教養主義的なレベルが高いということだった.もちろん全員がそうというわけではないが,東京の有名私立校出身の人達は既に哲学や文学といった分野の有名どころを一通り知っていて,その中でどんなことに興味があるということがはっきりしている人達が多かった.聞いたところによれば,そのような学校では院卒の先生が多く,日常的な授業の中で何となく身につけていくものなのだという.一方,都立高校出身の私は元々は法学部に行きたかったのだが,センター試験の結果に不安があったことに加えて,浪人時代に某「社会学者」(後にそれが必ずしも社会学でないことが明らかになるわけだが)の本を読んで文学部に通じる道を選んでしまったという単純さもあって,入学したものの一体これからどうしようかと正直途方に暮れることもあった.

 と,若干脇道にそれたが,そんな状態で生協の書籍部をうろうろしているときに目に入ったのが「アリストテレスを読む 東大の定番」というポップだった.そして,そのポップがたてられた本こそもちろん岩波文庫に収められたアリストテレスの一連の著作である.そもそも今考えると,本当に定番なのかは相当に怪しいが,当時若干落ち込んでいた私はこんなのを読むのが定番なんだ,と余計に気落ちした記憶がある.

 ただ,結果からみれば,全部読んでいるかはともかくとして,今私の本棚には青帯や白帯,赤帯といったバタ臭い本の数々が並んでいる.自発的に買ったものもあるが,授業の必要に迫られて,あるいは先生のすすめで買ったものも多い.ある意味では全く教養主義的な文脈とは無縁に生きてきた私からすれば,どうだったといえるのか.うまくまとまらない.

 以前読んだ『教養主義の没落』にどう書かれていたかは定かではないけれども,教養主義は没落したとはいえ,文科三類から文学部という過去4年間の環境を振り返るならば,おそらく他学部などの大学生活に比べれば,その余韻が多分に残されたものだったということになる.4月からそんな環境とは一切が切断された金融の世界に入る私は,何か月,何年,何十年経ったとき,この4年間をいかに感じるのだろうか,ちょっと,いやかなり不安である.

 なぜか,過去を振り返ってしまった…過去の失敗と未来への不安のただの愚痴ですな,こりゃ.


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小林標『ラテン語の世界』 [日常読んだ本]

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産

  • 作者: 小林 標
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 新書

 基本的には、ラテン語という言語自体に注目しての、その造語力の豊かさや現代のフランス語やイタリア語などのロマンス諸語への流れの解説、そしてラテン語で書かれた文学についての解説という二部から、きちんと分けられたわけではないけれども、なる。ラテン語という言葉がどういう性質・経歴を持つのかを手っ取り早く知ることができ、しかもそれは、より深く知る際の手がかりになる。

 感想としては、ラテン語、京都大学、筆者はすごいんだ、ということ。言語には優劣はない、としながらも、形式と意味との論理的関連性に優れたラテン語をひたすら持ち上げ、東京帝国大学に招かれたケーベル博士の伝統を受け継ぎ、古典学の中心であり続けてきた京都大学を持ち上げ、そこでラテン語を学んだ筆者はすごい、みたいなイメージ。ケーベル博士は東京帝大に招かれたのに、なぜ伝統を継いだのは京大だったのかは素朴に疑問。前に東大と京大の古典学は仲が悪いとか聞いた気もしますが、大人の事情が見え隠れしていそうなので、深入りは無用。上から目線な感じが引っかからないわけではないけれども、ラテン語自体にも、その文学にも気が配ってある本はそうないので、総合的にはいい本、ということで。


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ペトロニウス『サテュリコン』 [日常読んだ本]

サテュリコン―古代ローマの諷刺小説

サテュリコン―古代ローマの諷刺小説

  • 作者: ガイウス ペトロニウス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/07
  • メディア: 文庫


 巻末の解題によれば、暴君として知られるローマ帝国の皇帝ネロを楽しませるために、ペトロニウスによって書かれた悪漢小説とのことである。この小説が書かれた背景とその内容の関係や、話中に登場するトリマルキオンの饗宴に見られる古代ローマ人の暮らしを伝えているということにおいて、読むべきもの、といったところか。感想としては、確かに古代ローマ人がどのような暮らしをしていたのかをうかがい知るという点では興味深い。ただ、物語の流れはへんてこな官能小説、しかも要所要所でその文が伝えられていないという有様で、小説としてはそれほど面白くない。

 あらすじを簡単に紹介すると、2人の青年が美しい少年奴隷をめぐって争いながら、南イタリアを盗みや詐欺などを重ねながら放浪し、そこにさまざまな好色の男女が関わってくる、というもの。かなりの部分が失われてしまっているため、話の全体像がつかめないが、男三人の三角関係、成金解放奴隷の贅沢三昧、上流婦人の男遊び、遺産の継承をめぐった詐欺など、一つ一つのトピックを適切にあらわすのは、表紙に書かれた「悪の華」という表現だろう。

 性的な描写もかなり露骨で、しかも、描写が芸術的かと問われれば、ただの娯楽だろうなといった展開なので、歴史的な価値があるという一点で岩波文庫たりえているともいえそう。中学校の図書館に、岩波文庫の一冊として並べるならば、相当に勇気のある先生かな、と思う。中学校といえば「3年B組金八先生」。上戸彩のシリーズでは、そういえばセクシャル・マイノリティを主題にしていたような。授業であれこれ言う前に、こういう古代ギリシア・ローマの小説を読ませるってのもいいのかも。少なくとも、性っていうのは固定的な概念ではないことを思い知る。と、一応社会学を学ぶものとして、こんなことも考えてみるのでした。


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宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー 上』 [日常読んだ本]

ブレイブ・ストーリー (上)

ブレイブ・ストーリー (上)

  • 作者: 宮部 みゆき
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2006/05/23
  • メディア: 文庫


 この小説はファンタジー小説ではない。とてつもない、いや身近にありそうな現実的絶望に裏付けされた冒険物語である。

 角川文庫版『ブレイブ・ストーリー』の上巻では、なぜ主人公のワタルが幻界(ヴィジョン)へと旅立つことになったのか、旅立ちの動機としての父母の離婚(正確には別居)にまつわる物語が描かれる。前半では、典型的な戦後の核家族—専業主婦の母、仕事でなかなか帰ってこない父、しかし父を尊敬し、母を愛する子供—がごく普通の幸せな毎日を過ごしていく姿が強調される。ところが、家族は崩壊する。突然に父は結婚前に付き合っていた女と暮らすために家を出て行き、父と母が結婚したいきさつがその女によって暴露され、母は子との心中を決意する。この危うく心中に巻き込まれそうな所を、同級生のミツルによって助けられ、運命を変えられる力を持つ女神がいるという幻界へと彼らはそれぞれ旅立つ。

 小説の筋を一歩引いて眺めると、理屈と情愛という二項対立が目につく。序盤は理屈屋の父、その遺伝子を受け継ぐ子として描かれていた両者が、後半は「若い女のケツ追っかけて女房子供を捨てる」、情愛の父と、それに対して至って正論で抵抗する子の対立として描かれる。ここで、随所に挿入される思春期特有のありようというありがちなスパイスが効く。通常の分別のない子供と理性的な大人という対立よりも、この小説では、むしろ「理性的」(通常の理性的とはもちろん違う意味で)な子供と、理性を超える、情愛に左右される大人という図式が思春期という中間項を挟んで成立している。息子が父に対して、理詰めで離婚の正しさを問うと、父はあれこれと理屈を付けながらも、結局は大人にならなければ理解できないことだと身をかわす。俗な意味において大人になるということこそが、ワタルがこの離婚を理解するのには必要なわけだ。

 離婚というだけでは、今の時代はどうということはなく、ワタルのこのケースは十分に不幸だが、上巻を読んだだけの私としては、幻界へと旅立つことを選択するリスクを負うほどの動機たりうるのかがわからない。運命なのだから、引き受けろよ、とも思う。映画のホームページを見ると「うまくいかない現状を自分が受け入れて、そこから進んでいくことが出発点なんじゃないか」と宮部みゆきは書いている。ということは、結局は引き受ける方向性なのかな。このとき、運命を変えるためという幻界に行くことの意味が変質するわけだから、何かあるのでしょう、この後に。いずれにしても、ただのファンタジーではない。現実と密接に絡んだ問題意識のある幻想の世界、その現実はとてつもなく重いし、その部分だけでも十分小説たりうる濃厚さ。果たして、アニメにしてどうするのか。上巻を読む限りは、メリットで頭を洗ってきなさい、というテレビのCMのような親子関係ではないし、子供たちが単なる冒険ものとしてわくわく楽しめるようなものでもない。映画ではかなりマイルドな味付けになっているのかも。

 では、中巻を読んでみようかと思いつつ、この本の下には全く違う本がおいてあるのでした。


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西村賀子『ギリシア神話 神々と英雄に出会う』 [日常読んだ本]

ギリシア神話 -神々と英雄に出会う

ギリシア神話 -神々と英雄に出会う

  • 作者: 西村 賀子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/05/26
  • メディア: 新書


 ギリシア神話は、ひとつひとつのエピソードは美しかったり、醜かったりと非常に魅力的な一方、その全体像はとにかく複雑。登場する神様や英雄たちは一体どんな血縁関係なのかわからない。そこにこだわると、読む気をなくすけれども、それぞれの物語を味わうと結局その背景が気になる。ということで、概略を記した本を読んでみる、面白くないから途中でやめるという悪循環に陥る、少なくとも私に関しては。

 この本は神話学の授業に影響を受けて、一年前に買って積んであったもの。ラテン語の授業のおばちゃん講師がオウィディウスの『変身物語』がおもしろいと熱く語っていたので読んでみようと思い、その前に予習をしてみようと手に取った。読んでみると、大まかな概略に、心引かれるエピソード、ギリシア神話の意味する所などが手頃にまとめられていて、楽しく読み切った。他の本と違ってよかったのは、所々に挿入された神話を描いた絵画。カラーではないのが残念も、ウェブ上で探してみると大体は見つかり、さらに楽しめた。

 ギリシア神話は単純に面白いだけでなく、教訓にも富んでいて、いろいろ言いたくなる所がまたいい。レポートとかで、議論の補助線に使ってみるといいかな、と思うも、何だこいつ!的な空気が漂いそうな気もする。


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柄谷行人『世界共和国へ』と藤原正彦『国家の品格』 [日常読んだ本]

 どう考えても、同列にしてはいけない両書。ご無礼をお許しください。

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて

  • 作者: 柄谷 行人
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2006/04
  • メディア: 新書


 基本的な流れとしては、マルクスを補助線として、商品交換をその原理とする資本、再分配をその原理とする国家、互酬をその原理とするネーションがいかなるものであり、いかに成立して、結びついてきたかを論じ、その資本=ネーション=国家を超えるアソシエーショニズムの実現、カントのいう「世界共和国」への道のりを示す、といったところ。

 まず、疑問点をひとつ。単純にものを知らない私からすると、「商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動」(p179)であるアソシエーショニズムとカントの「世界共和国」がどういう関係にあるのかがよくわからない。そのつながりについては、「各国における「下から」の運動は、諸国家を「上から」封じこめることによってのみ、分断をまぬかれます。「下から」と「上から」の運動の連携によって、新たな交換様式に基づくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される。」(p225)ということだけれども、諸国家の上に立ち、国家を「上から」封ずるものについては、一つの世界共和国という積極的理念の消極的な代替物である連合という道筋がつけられている一方で、「下から」についてはその見通しへの言及がほぼない。もちろん、マルクスが見逃した国家の自立性をいかに処理するかがこの本の核心であり、「下から」はマルクスを読め、ということなのかもしれない。しかし、冒頭で述べた理念と想像力なきポストモダニズムへのある種の対抗を目指して、この本は書かれたわけだから、もうちょっと丁寧に書いていただけたらなと思う。ただ、全般的には、大学生たる私にも大方は理解でき、閉塞する社会状況へのオルタナティブとして非常に興味深い議論だった。

 内容とは別に、興味深いのはこの本の語り口だと思う。本文では「です・ます」と「た・である」が混ぜられ、独特の雰囲気を醸し出している。よく講演会をもとにした原稿ではある文体だけれども、それとは全く違う、息苦しいといっても良いほどの重さがある。あとがきを読むと、「いつも、私は自分の考えの核心を、普通の読者が読んで理解できるようなものにしたいと望んでいた。というのも、私の考えていることは、アカデミックであるよりも、緊急かつ切実な問題にかかわっているからだ」というフレーズが印象的だ。「緊急かつ切実な問題」があると考え、この本を手にし、アソシエーショニズムという理念に対して、自らを方向づける「普通の読者」がどれだけいるのだろうか。この著者の切迫感が上滑りである時代、それが今なのかもしれない。まさに、理念と想像力なき時代である。

 この本は岩波新書の新赤版の1001点目であり、最後のページには「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」と題された文章が付されている。「その先にいかなる時代を展望するのか、私たちはその輪郭すら描きえていない」、「世界は混沌として深い不安の只中にある」という現状認識をもって、「いま求められていること——それは、個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか」とする。そして、「その営みの糧となるものが、教養に外ならない」とし、その「教養への道案内こそ、岩波新書が創刊以来追求してきたこと」であるという。これは柄谷がこの本で訴えたこととの相似形であり、『世界共和国へ』を1001点目に据えたこともうなずける。私自身は、この考え方に賛同するし、岩波には理想を、理念を追いかけてほしいと思う。

国家の品格

国家の品格

  • 作者: 藤原 正彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 新書


 最近ヒットした新書と言えば、『下流社会』や『国家の品格』が思い当たる。前者は、学部卒のマーケティングが専門の民間人が、後者は数学者という国家に関しては全くの素人が書いたものである。もちろん、素人故に、新たな発想ができるということはあるだろう。ただ、その種のものは「一人ひとりが粘り強く思考する」ための糧にはなりにくいのではないか。本当は『国家の品格』についても、読んで自分の考えをまとめようと考えていたのだが、あまりにいい加減な現実の把握、議論の進め方についていけず(彼流に言えば、情緒が論理に優先するのだから当たり前なのかもしれないが)、国のような概念は多くの思考の地層があるわけで、そこを考えない独りよがりな(といっても、一般には支持を得ているようだから、正確にはそうではない)展開に違和感を覚え、途中で読むのをやめてしまった。これは本来エッセイとして読むべきもので、そう真剣に読む必要はないのかもしれないけれども、子供の私には読むことができなかった。大人になったいつの日にか読みたい「新書」である。

 ところで、柄谷がいう「普通の読者」とは誰なのだろうか。柄谷行人ファンでもない、哲学好きのおじいさんでもない、『世界』の読者でもない、あるいは赤旗の読者でもない、もちろん、ゼミで指定文献にされた学生でもないわけだ。『バカの壁』や『下流社会』、『国家の品格』を読んでいる「普通の人」であることは明らかだろう。カントやヘーゲルといった思想とは縁がない人がそれと出会える空間こそが新書である。ただ、「普通の人」がネーションという「想像の共同体」(『国家の品格』が志向する!)から、「世界共和国」へと足を延ばすには“何か”が必要である。“何か”とは何だろうか―


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