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C. S. ルイス『ナルニア国ものがたり 朝びらき丸 東の海へ』 [日常読んだ本]

朝びらき丸東の海へ ナルニア国ものがたり (3)

朝びらき丸東の海へ ナルニア国ものがたり (3)

  • 作者: C.S.ルイス, 瀬田 貞二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2000/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


 今、上映中の「ナルニア国物語 第一章 ライオンと魔女」の原作である、C. S. ルイスのナルニア国ものがたりシリーズの第三作。この本では、これまでの作品でナルニアに導かれていたピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィのうち、「進歩的」(=アメリカかぶれ)なおじさんのうちに預けられた、下二人のエドマンドとルーシィ、そしていとこのユースチスがナルニアへと旅立ちます。そこで彼らは、先の暴君によって島流しにされた諸侯を探す航海に出た、前作で王位に就いたカスピアンと出会い、ともに朝びらき丸で東へと向かい、多くの経験をすることになります。

 印象としては、これまで読んだ三作の中では一番面白かった。これはナルニア全般に言えることだけれども、話の構造や子どもたちの体験などがお説教くさいのは、人によって好き嫌いが分かれるところかと思いますが。ただ、著者はこのシーンで何を訴えたいのかを考えることが好きな人は相当楽しめる作品だろうし、そんなことは考えない!という人も、次々に彼らが出会う不思議な世界に、彼らの冒険に心躍らせることができます。なかでも、ラストのこの世のはてに向かう彼らを待ち受ける「海」の広がりは圧巻です。これは映画化するとしたら楽しみだな、と思うも、第二作の「カスピアン王子のつのぶえ」がアメリカで2007年12月公開ということなので、いつになるのやら、わかりませんが。

シリーズ全般を貫くテーマは(といっても私が思うだけかもしれないけれども)、「信じる」ということ。それを中核に、勇ましさであるとか、素直さ、堅実さといった様々な美徳が散りばめられた冒険が据えられます。エドマンドの罪を背負って処刑された後、復活したアスラン(もちろん、イエス・キリストを想起させる)が自らを信じるものたちが過ちを犯そうとするたびに現れては、彼らを正しき道へと導くわけです。この『朝びらき丸 東の海へ』でも、はじめは「お勉強」好きで協調性がなく、ルーシィ兄弟や船員たちから嫌われていたユースチスが改心して、良い子になります。読み手としては、別にキリスト教徒ではなくとも、その理念に共感することができるし、あるいは、通奏低音としての「アスランの正義」のおかげで、あたかも「水戸黄門」のように安心して身をゆだねることができるので、過度の心配をすることなく、彼らの冒険を味わうことができるともいえるかもしれません。

 この本のエンディングで、アスランはナルニアではない、この世界にも別の名前で私は存在し、ルーシィたちはその名前を知ることを習わなければならないのだ、と語ります。そして、ルーシィたちがナルニアに連れてこられた本当のわけはそこにあるのだ、とします。ということは、この冒険の目的はまさにキリスト教を信仰することの練習にあるということに。この本を私は就活中に時間つぶしで立ち寄った銀座の教文館で買いましたが、教文館といえば、一般の書籍も多く扱っているものの、メインはなんと言ってもキリスト教書です。そこの児童書売り場は「ナルニア国」という名前であったり、聖書やキリスト教の研究書が並べられた棚の一角に、この「ナルニア国ものがたり」シリーズも並べられていたりするわけです。キリスト教圏では、というよりも、日本のキリスト教徒の中では、どんな位置づけでこの本が読まれているのか知りたくなりました。

 さて、これはナルニアとは関係ないのですが、その教文館で面白かったのは、3階の売り場の構成です。3階はオルガンの音色が響く中、キリスト教書に加えて、岩波書店やみすず書房などの人文系の学術書がすぐ横で売られています。日本の人文系の学問の状況を象徴しているかのようで、ちょっとおかしくなってしまいました。


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白岩玄『野ブタ。をプロデュース』 [日常読んだ本]

野ブタ。をプロデュース

野ブタ。をプロデュース

  • 作者: 白岩 玄
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2004/11/20
  • メディア: 単行本


 周りとの適度な距離を保ち、「友達」や「彼女」を適度にひきつけるように振る舞ってきて、クラスの人気者である桐谷修二が、転校生で、太っていて、見た目として既にキモい典型的ないじめられっ子である小谷信太を「野ブタ」といういじめられっ子キャラの人気者へとプロデュースしていく。その過程で、自分を取り繕ってきた修二は「着ぐるみ」を着ていない春休みに、「友達」がいじめられていることを見過ごしてしまう。その結果、野ブタは人気者になる一方で、「修二はそういう軽薄な奴だと薄々は思っていたけど」という空気が学校では広がることになり、今度は修二の方が孤立し、新しい学校へと転校していく。

 昨年、日本テレビで放送されたドラマでは、基本的な部分は踏襲されているものの、野ブタは堀北真希が演じる小谷信子という女の子になり、それをプロデュースするのも、亀梨和也が演じる桐谷修二だけでなく、原作には登場しない山下智久が演じる草野彰が加わっている。ドラマも小説も、アイデンティティ管理に主眼が置かれている点は同じだが、前者では修二と彰と信子の友情にスポットを当てる一方で、後者では友情は存在しうるのかについて最後まで懐疑的な立場が取られている。以下、小説とドラマについてみていく。

 「本当の自分をわかってくれる人が友達なんだ」という見方を(特に小説では)否定する修二は、いつも何かを演じていることになる。誰かに対して、理想的な自分を作り上げて、それを演じることは否定的にとらえられることが多いように思う。(ビジネス本や自己啓発書などでは別だろうが。)しかし、この本ではどちらかといえば、それは肯定される。そもそも、小谷信太が、あるいは小谷信子が先天的にキモいのでは、人気者になれるはずがない。人気者になれるように演じられるからこそ、野ブタはいじめから脱却できる。

 しかし、小説では修二はその演技が結局は見透かされて、完全にいじめられっ子になってしまう。修二自身は最後に描かれる新たな学校でも、セルフプロデュースへの決意をしていることからすれば、自らを演じていくことを絶望視しているわけでもなく、むしろ、今回はたまたま失敗しただけだと考えているともいえる。ドラマでは、父の転勤に伴って転校した修二についてきた彰が、新たな高校では中心人物になり、修二がクラスで浮いた存在になるというように、転校は「自分」の流動性を強調する要素となっている。

 ただ、小説にも本当の自分をさらけ出すことを求めている部分も描かれている。それは、周囲からは付き合っていると考えられている、そして彼女自身もそう考えている、マリ子との交流においてである。当初は、そして表面的には、マリ子と仲良く振る舞うことは、修二にとっては学校一の女の子であるマリ子をモノにしたステータスを得るためにすぎない。しかし、マリ子との交流では、特に野ブタがマリ子のことが好きだと明かして以来、修二の演技に「ほころび」が生じることが多い。性的にマリ子に惹かれる修二と、理想的な自分を演じる修二の単なるギャップといえばそれまでだが、あえてマリ子に自分の態度はつくられたものだったことを言い捨てた後に、マリ子への思いを改めて感じ、告白しようとしたことを考えると、演技を超えた関係、実際の自分(自分を取り繕ってきたことも含めて)を認めた上での関係を求めていたと読めないだろうか。

 一方でドラマでは、本当の自分を取り結ぶ絆が強調されている。小説では家族の前でも演技をしている様子がうかがえたが、ドラマでは仲の良い家族である。最終回で修二に転校を決意させたのは中島裕翔が演じる弟の浩二の涙だった。そして何よりも、プロデュースの過程で修二と彰、そしてその二人と野ブタの間で演技ではない友情が成立していく様子がドラマでは大きな柱となっている。小説では修二が自分と野ブタが近づきすぎることを嫌っているのと対照的である。

 修二と彰といえば、「青春アミーゴ」。これを聞くと、小説には出てこないドラマの彰は何者なのかがわかるように思う。まさに修二と彰は「いつでも2人で1人だった」のではないだろうか。ドラマの中の、二人のある種恋人のような絡みはおそらく視聴率的に演出されたものだろうが、それ以上に小説での修二を分裂させたものが彰だともいえよう。彰は自分の演出を間違ってしまった修二であり、本当の自分への思いを捨てきれない修二である。一方の修二は完全にクールな自分を演じきる。そして、その二人、修二と彰の壁が回を重ねるごとに消えていき、一人へとなっていくかに見える。しかし、転校という新しい環境へのデビューに際して、その壁は再び立ち上がる。しかも、今度は彰が修二に、修二が彰になるわけだ。

 最後に、この小説そのものについて。タイトルどおり、野ブタをプロデュースする話とみるならば、納得。が、修二自身のプロデュースにもフォーカスがあるのならば(実際あるが)、読者としてはその心の移ろいをより深く知りたい。特に、マリ子との関係での心境の変化は丁寧に追ってほしい。と、偉そうなことを言って、感想終了。


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岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』 [日常読んだ本]

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏

  • 作者: 岡田 暁生
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 新書


 まえがきによれば本書の目的は「西洋芸術音楽の歴史」を「川の物語として語ること」である。この音楽は誰がいつ作曲して…というものではなくて、大きな流れのなかで作曲家や作品がいかに位置づけられるか、そもそもその流れがどのようなものかを明らかにすることに主眼が置かれている。

 私自身は、クラシックの知識といえば学校での音楽のものしかないので、割合と新鮮にさくっと読み通した。自分のもっている世界史の知識と聞いたことのある音楽が結びついていくのは爽快。点としての音楽が、思想的・時代的な背景を持つこと(あるいは「もたない」こと)を痛感させられる。

 ベートーヴェンの第九交響曲「合唱」については、どこかで聞いたことはあったものの、「音楽の万人への解放」という理念と「集団へ熱狂的に没入する快感」が紙一重であることが指摘されている。筆者曰く、「エイエイオー」調であるこの第四楽章は、この国では年末の風物詩である。「みんなのもの」としての第九と「熱狂」の第九、その深さと浅さに、今度聞くときは思いを馳せてみようかと思う。


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三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』 [日常読んだ本]

下流社会 新たな階層集団の出現

下流社会 新たな階層集団の出現

  • 作者: 三浦 展
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2005/09/20
  • メディア: 新書


 相当売れている一方で、日本の階層研究の第一人者たる私のゼミの某教授があきれ気味にお怒りだったので、読んでみました。何が書いてあるかと言えば、題名そのもので、二極化ということが盛んに言われている現状の焼き直し。階層意識の「上」、「中」、「下」の人たちにそれぞれどのような特徴があるのかを調査結果を分析し、新書らしからぬ?強引さ、ぶっきらぼうさでレッテルを貼付けていく。

 単なるステレオタイプの、二極化言説の大衆への再生産じゃないか!これは確かに研究者は怒るでしょうね、といった印象。ただ、マーケティングを専門とする三浦さんの手つきはアカデミズムのそれと違うことは当然だろうし、おそらく前者の意味においてこの本の中身も理解すべきなのではないか。あくまでも、「今の時代はクラウンじゃなくて、レクサスの方が儲かるよね」というテンションで読む。そうすると、目くじらを立てる必要もないのかなと思う。

 ゼミの某教授曰く、「なぜこれが売れるのかは考えないといけない」。事実として売れていることは、二極化していることを実感している人が多くいるからであろうし、本当の意味での二極化に舵がきられつつあることもまた確かであろう。「未来」を扱うことは「学問」ではないのかもしれない。赤門のなかから彼らは何を考え、社会へと還元していくのだろうか。


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竹内洋『丸山眞男の時代』と『論座』2006年1月号 [日常読んだ本]

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム

  • 作者: 竹内 洋
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 新書


  一言でいえば、丸山眞男を軸とした戦後日本論。大きく分けて、2つの観点がある。まとめてみると...

 1つ目は、丸山がいかに戦後日本に位置づけられるかについて。丸山は、『世界』に掲載された「超国家主義の論理と心理」で「本郷文化圏」での地位を築いたことをきっかけに、『現代政治の思想と行動』や『日本の思想』で読者層を拡大、平和問題談話会などを通じて、戦後の代表的知識人として国民を啓蒙し、60年の安保闘争では、それを本職とするのではない自発的に参加した一般の市民により運動が成り立ったという点で一定の成功を収めた。しかし、それ以降は、大学が大衆化して、経済的にも、文化的にもエリートたり得ず、文化貴族への怨恨を抱く全共闘学生や、それを代弁する吉本隆明などの次世代のインテリによって、丸山は批判されていく。

 2つ目は、なぜ丸山がこのように戦後知識人の中で主導的な地位をつかむことができたか、そして大学・知識人・ジャーナリズムの関係について。前者に関していえば丸山が東京大学法学部で政治思想史を専門としていたことが大きい。文化的には劣るが実際的で、権力に結びつき、社会への接続を拒まない法学部的なるものと、経済的には劣るが文化的で、社会的活動からの遮断をよしとする文学部的なるものの中間にあるのが政治学であり、さらには、文学部から見れば大風呂敷に映る、西洋的な分析枠組での日本論を可能にした。後者に関していえば、丸山はジャーナリズムに汚染されることを嫌い、登場する媒体を選びながらも、媒体をアカデミズムとジャーナリズムを股にかけることで双方の威信と名声を高めあっていくことができたが、現代では大学はジャーナリズムよりも権力的に下位に置かれ、知識人は「知識人兼ジャーナリスト兼芸能人というトリック・スター的知識人」になっている。

 私は丸山眞男といえば、高校生のとき読んだ『日本の思想』と、西洋的な見方で徳川時代の思想を読み込んだ人、というような一般的な知識しかないのでその云々というところは何ともいえない。2つ目の「法学部的/文学部的」との観点と現在の知識人についてはなるほど、と思った。

 元々法学部で政治学を学びたかった私としては、文学部につながる文科三類に入ってジャーナリステックな文脈に興味がない雰囲気に当初は、なんとなく違和感があった。(今となってはすっかり文学部に染まって、高校時代の友人には現実から見方が乖離していると言われますが。)私が政治学を学びたかったのは、単なる実利ではなくて、理念的なものもそこにはあるのかなと考えていたからだったので、文学部の中では法学部的な社会学を選んだことは当然の帰結なのかもしれない。

 と、個人的な回顧は置いておいて。現在『世界』によく出てきて、アカデミックな香りの強い知識人としては丸山と同じく東京大学法学部で国際政治を専門としている藤原帰一が思い浮かぶ。ただ、藤原さんは、あくまで政治学の範囲を意図的に逸脱しようとしない、あるいは需要がないから積極的にジャーナリズムの世界に進出しようとしても受け入れられないのかはさておき、一般に広く受け入れられているとは言いがたい。「社会学の時代」らしい今日、現在の知識人のポジショニングについての話を読んで思い出すのは、というよりも、想定されているのは筆者の「同業者」、宮台真司ではないだろうか。(トリック・スターとは辞書を引いてみると、1. 詐欺師、2. 社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在、とのこと。)2006年1月号『論座』の「社会学は進化しつづける」では、宮台さんがなぜアカデミズムに興味がないかについてや、社会学の中でのアカデミズム—ジャーナリズムが乖離していき、社会学が薄く広く引き延ばされる状況についてが語られている。宮台さん曰く「SFC的」(しかもリスニングができないんだからこれも失格?)で、まさに「コピペ野郎」な学部生の私が途中で振り落とされた(-_-;ように、こんなに専門的な話を、『論座』に載せていったい誰がついていけるのか謎だけれども。

 ところで、竹内さんの『教養主義の没落』では、教養主義の象徴的存在として『世界』や岩波文庫など岩波文化が据えられていた。今回も丸山が「スター」への階段を駆け上るきっかけとして、あるいは丸山のポジショニングに大きく関わるものとしてそれは挙げられている。せっかくなので、書庫に入って、『世界』の創刊号や「超国家主義の論理と心理」が掲載された1946年5月号を探してみた。和辻哲郎などのビッグネームが並ぶなか、確かに「超国家主義の論理と心理」はほかと比べても半端なく線が引かれ、書き込みがされている。『丸山眞男の時代』にはこの論文を書き写した人の話も載っていたぐらいだから、本当に当時の学生にとって衝撃的なものだったのだろう。SFCがもてはやされる今日と、「超国家主義の論理と心理」に心躍らせた1946年と、その隔たった学生の姿に思いをはせてしまった。必ずしも、どちらが良いということはないだろうが、上っ面だけ整えました、という生き方を反省した瞬間だった。


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高橋哲哉『靖国問題』 [日常読んだ本]

靖国問題

靖国問題

  • 作者: 高橋 哲哉
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/04
  • メディア: 新書

 「この問題を語る上で決して外せない一冊が登場した!」との真っ赤な帯が目を引きます。私は2年前に駒場で高橋先生の、靖国問題をテーマにした「社会哲学」の授業を受けたことがあったので、だいたい同じなんだろうなと読んでいなかったわけですが、やはりだいたい一緒でした。ただ、確か授業ではもっと古代ギリシア時代の葬送演説とか、カントーロヴィチ『王の二つの身体』とかの検討があった気がするので、その辺はカットされたようです。ただ、結局最初から最後まで「お固い新書」で決して読みやすくはないので、30万部以上が売れたらしいのですが、果たしてそのうち何人が最後まで読み終えたかが若干疑問な一冊ではあります。

 著者の一番指摘したいことは、「靖国問題の根幹にあるのは、首相の靖国参拝が違憲かどうか、A級戦犯の祀られている靖国に首相が参拝するとアジアの国々からの反発があるからやめた方がいい、とかそういうことではない。靖国神社とは戦争への国民の動員を、つまり戦争の存在自体を担保するシステムなのだ」ということです。簡単にいえば、「僕は戦争で死んだとしても、靖国に祀ってくれるんだからいいや、戦場に行ってきます」と本人に、「そうね、いってらっしゃい」と家族に言わせるシステムが築かれているということです。「死にたくない!こんな死は犬死にじゃないか!」、「そうよ!かわいい息子を、愛しい夫を、そんなところへ行かせるわけにはいかないわ!」と少なくとも表面上は言わせないのが靖国神社の役目であるわけです。ここで、注意しないといけないのは、国が「戦死者」(「ザ・戦争」以外の死者も含むということ)を追悼する限りは、たとえ無宗教の追悼施設であろうと、結局それは第二の靖国、戦争を担保するシステムの構築につながってしまうということです。だから、「本当の反戦」のためには国による追悼を一切拒否すべきということになる。

 ほかにも様々な面から靖国問題を検証しているわけですが、一番言いたいのは以上のことです。高橋哲哉はもちろん「左の知識人」ということになるわけだけれども、この本では中国や韓国の肩を持っているというわけでもなく、「靖国神社」的なものに対する批判に力点があるわけです。戦死者の顕彰をする点では、中国でも、韓国でも、アメリカでも同じです。授業では、それぞれの国の追悼施設についても批判的なトーンで検討していたけれども、その部分はほぼないところが、アカデミックな場とは違う、「新書」という空間なのかもしれません。

 私が、このような公共の場で賛否を表明するのは危険なのでf(^^;)しませんが、この本は右左問わず役立つのではないかと思います。高橋さんの見方で言えば、究極的には靖国が必要か否か、許せる否かは、国家の戦争が必要か否か、許せるか否かになるわけで、象徴的に言えば、「あなたは国のために死ねますか」ということになるのではないでしょうか。そのときの「はい、死ねます」、「いいえ、死ねません」、そこに賛否の源泉はあるのかもしれません。高橋さんは「そんなの死ねないよ」ということを前提に議論を組み立てているけれども、きっとそこにほころびがある気もします。そうすると「国とは何か」という問いが重要で、ここをないがしろに靖国は語れない。私は社会学を専攻しているわけだけども、倫理学の授業に実は今、結構はまっていて、そうすると社会学的な「国」とはまた違う見方がありそうです。いずれにしても、騒ぐだけでは何もわからない、解決しないのが靖国問題、ということになるでしょうか。

(今回は講演会風に書いてみました)


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重松清『疾走』 [日常読んだ本]

疾走 上

疾走 上

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 文庫


疾走 下

疾走 下

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 文庫

 夏の100冊限定ブックカバーが欲しくて買った2冊。ただ、買って損はなかった。

 主人公は「沖」と呼ばれる干拓地と「浜」と呼ばれる旧来からの集落に分断される地域に住む「浜」の少年、シュウジ。その優秀で、母や地域の期待を一身に集める兄シュウイチが高校進学で挫折し、壊れていき、放火魔になってしまう。その結果、家族は崩壊し、シュウジは一人になる。そんなシュウジはクラスに転校してきて、また去っていった孤高の、強い「ひとり」の少女エリに憧れる一方で、誰かと、「浜」に住んでいた大人のアカネと、母と、聖書と、エリと、「つながる」ことをひたすら求めていく。

 「つながりたい」、それがこの話のメインテーマ。そのつながりは性的なものでもあるし、聖書に表されるような精神的なものでもある。これを読むと、どうしても同じ重松さんの『エイジ』との対称性に目がいく。『エイジ』ではエイジは自分を入院患者のようにベッドに縛り付けるものから「キレたい」と願い、『疾走』では家族が崩壊して本当に一人になってしまったシュウジがただひたすらに「つながりたい」と願う。

 特に印象的なのは、シュウジが東京に流れ着いて、バイトの場として多摩ニュータウンが選ばれる点。重松さんの小説は、14歳ぐらいの少年が主人公で、その年齢ならではの悩み、性的な描写、というような基本的な組み立てがあるものが多い。『エイジ』も『疾走』もこれには当てはまる。ただ、違いも当然多い。『疾走』の主人公シュウジはエイジと同じく弟だけれども、住んでいたのはニュータウンではなく地方で、新参者を蔑視するような「古い」田舎の街。放火魔を出したシュウジの家には嫌がらせが相次ぐ。その一方、『エイジ』で通り魔になったタカやんの家は、エイジとツカちゃんが見に行ったときも何ごともなかったかのようにそこにあり、しかも、犯行に使われた(と思われる)タカやんの自転車にはご丁寧にカバーまでかけられていた。

 「つながりたい」シュウジは多くにつながっていたからこそ、家族が崩壊し、街から出ざるを得なかった、「キレたい」エイジは本当には多くにはつながっていなかった、のかもしれないわけだ。シュウジが流れ着いた多摩ニュータウンの新聞販売所の所長はニュータウンに越して来る人たちを「借金背負ってまで我が家の欲しい皆さん」と表現し、シュウジはニュータウンの駅前で道行く人が皆「ひとり」に見え、自分はベンチに座っている少年というただの風景でしかないことに気づく。シュウジから見れば、どうしようもなく「ひとり」なエイジが「キレたい」。エイジは自らの暮らしがホームドラマみたいだと話しているけれども、シュウジにいわせれば、その生活のうすっぺらさを見事についた言い方ということになろう。(ただ、「ひとり」に見えるだけかも、とシュウジ自身が考えているように、彼らには家族という「強固な」「つながり」がある、あるいはあるとされているわけだが。)

 「つながり」で生活を破壊されたシュウジが「つながり」から「キレて」清々しました、という話だと2時間ドラマに出てくるただの「裏のある女」になってしまう。本当には、人はひとりで生きていきたくない、生きていけない、それがこの二つの小説のメッセージなのかもしれない。「好き」でできたつながりはいい、と最後に感じるエイジ。つながりは「好き」でなくても、あったほうがいい、いやとにかく「つながりたい」シュウジ。そのつながりの隙間から立ち上がる不安、考えさせられる。(そういえば、聖書について何にも言及してないけれども、普通に読めば聖書が一番のキー。「ことば」が大好きな私はちょっと聖書に魅かれました。うーん、でも微妙なテーマなので、語りません。)

 本の帯によると、『疾走』が映画化されるらしい。シュウジがNEWSの手越祐也、アカネが中谷美紀とのこと。手越君は確かにそれっぽいけど、中谷美紀がどうかなあと。というよりも、これをジャニーズ主演で映画化するっていうことに無理があるのでは。「つながりたい」の半分は性的に「つながりたい」なわけで、どう映像化するのか。そういう場面を減らしちゃったら『疾走』でなくなるし、そのまま行けば、手越君ファンの女の子は困るというか、怒るだろうし。そういう意味では、楽しみな映画化ではあるかも?


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重松清『エイジ』 [日常読んだ本]

エイジ

エイジ

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2001/07
  • メディア: 文庫


エイジ

エイジ

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: 文庫


 主人公エイジは桜ヶ丘ニュータウンに住む中学二年生。目立たないクラスメイト、タカやんが実は街を騒がせていた連続通り魔事件の犯人だったことから、エイジは自分とその犯人の何が違うのかについて思い悩む。そしてその悩みは、成長期特有の膝の病気でバスケ部を休部していることや、その休部中に起きたバスケ部内でのいじめ、好きな女の子のことなど多くのことを背景として、エイジを日常の生活から「キレさせて」しまう。その結果、自分は通り魔の犯人とは違うとの不確かな確信を得ることになる。

 この本を読んだのは二回目になる。一回目はドラマでこの話を見て(たぶん高校2年生のとき)、朝日文庫で読んだ。そのときもいろいろな意味で良くできた小説だなとは思ったけれども、今回読んでみて自分の中で読み方が変わっていることに驚いた。

 一回目に読んだときは、自分としてはエイジのクラスの秀才、タモツ君にコミットしていた。タモツ君は、クラスの中で悪ぶっている(ピラミッドの頂点に立つような)ツカちゃんとも、互いに何か認め合って関係を築いていることからもわかるように、ただ通り一遍の、いわゆる勉強のできる子ではない。この事件に対して彼は、一流の論理力・推理力をもって解説していき、自分はあくまでその事件と自分は全く無関係であるとのスタンスをとり続ける。その意味では、重松さんは彼にワイドショーなどの中でも馬鹿ではないコメンテーター的な役割を与えたともいえる。おそらく、彼がこの小説を、つまり『エイジ』を読んだならば、「うん、なるほど。こういう経験って確かにあるよね、わかるよ。どっちにしてもエイジはエイジだからさ、道を踏み外さないでよかったよ。」というような感想をいうのではないだろうか。

 今回、新潮文庫で読んだときは誰かに感情移入したわけではないが、エイジの鋭さに、そして重松さんのうまさに感嘆した。先に読んだ『批評理論入門』から知識を生かすならば、この『エイジ』は全編がエイジ=高橋栄司による語りであって、信頼できない語り手ということになる。当然、彼は嘘もついている。自分自身の学校でのポジショニングがまず相当に怪しいことには注目すべきだろう。確かに、エイジはツカちゃんとも仲がいい。しかし、ツカちゃんが主催していて、テツや島田と金をかけている花札には参加していない一方で、生徒会活動にいそしむ小松にはエイジと名前で呼びかけられていたり、タモツ君にもなんでB級の奴らとつきあってるの?と指摘を受けている。さらにいえば、会話では自分のことを「オレ」という一方で、地の文では「ぼく」といっている。ここから浮かび上がるエイジ像は相当ナイーブな少年であり、Ageを代表しているという見方にも疑問符がつく。
 
 こうなると、お父さんが先生ということも、ニュータウン的な理想の核家族像も効いてくる。その「きれいな」環境と、部活という健康な少年を維持する装置からの切り離しが可能にしている、魅力的な、そして純粋で懐疑的なエイジ。ただ、実際の問題として、社会で生きていく中、こんな問いを自らにぶつけていたらやっていけない。
 
 新潮文庫の解説を書いている藤原和博さんは、この書をエイジがタカやんであることを疑似体験することで、自分は通り魔ではないと確信するに至った「オトナ化」の物語ととらえ、自分の提唱している[よのなか]科の教科書としている。しかし、エイジ自身は自分が通り魔をする「その気」は今は静かに眠っているだけで、「好き」と引き換えに奥にひっこんでくれるような気がするが、勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない、といっている。これを考えると、タモツ君(あるいは5年前の私)のような理解をしている藤原さんの読みには単純には同意できない。もし、「もしかしたら自分も…」との思いがあってもそれがないようなふりをしていくことが大人化だというのならば、その通りだろうし、高橋栄司は大人に一歩近づいたことになるが。ネットで見てみると、終わりが物足りないという感想もある。ただ、別に劇的な終わりでないからこそ(重松さんの『疾走』のように)、救いもある。結局、何も変わらないようでいて、本当に変わっていないのかもしれないし、若干何かが変わったのかもしれない、それが大人になることだとも考えられる。

 私自身の問題として考えるならば、この5年間で私はエイジに傾いたと思う。おそらく世間一般ではタモツ君、藤原さんが「本当の大人」とされるだろう。ということは、私は逆に「子供化」してしまったことになる。単純に、理屈を振り回して、現世利益的な生き方をするのであれば、どう考えてもその見方は正しい。ただ、割り切れない何かを常に抱え込むエイジの姿は嫌いではない。なぜか、文学部に入ってしまった私は実は深いところでエイジだったのかもしれない。[よのなか]、世の中とは何か。それを言っちゃあ、おしまいよ、ということをその先まで突き詰める。悪いことではない、と思いたい。


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